mormon-Christus救いの計画は私たち一人一人が神のもとで暮らした前世から始まり、やがて天の領域である神の元に戻って行くまでの個人の旅です。理想的には、神の霊の子供としての生い立ちに始まり、完成され、贖われ、復活して再び死ぬことのない存在として神とともに住むにふさわしい者となるのです。その時点になって主が約束されるのは私たちが「自分たちが知られているように知る」ことができるのです。永遠の世界が開け未来永劫にわたり学び続けるのです。これは土地や金のようなこの世的な遺産ではなく、神のものに似た力、栄光、知識、知恵を得ることです。モルモニズムには預言者がいるので、他の宗派と比べて死後の世界についての知識が豊富で、この死すべき世においても確実に歩む道を示してくれます。 ユダヤ教には49の門という概念があります。それらの門を通過し、この世の生活で必要なことを学びマスターしなければ天国に行かれないというのです。だれひとりとして誕生から昇栄までの間でまっすぐ進んで行かれる人はいません。主は神のもとに行き、天に住むためには「狭くて細い道」を通らなければならないとおっしゃいました。それを海路に例えてみると、危なっかしい領域を通っている狭くて安全な通路です。私たちのだれもが横道にそれてしまいます。確かに49の非常に大切な教訓があって、それぞれの一里塚に到達しなければなりません。しかし最終的には私たちは皆その狭い道を通らなければならないのです。それが神の元に戻る唯一の道だからです。 神がその道を備えられました。その道の道路標識には「福音の第一原則」という名前がつけられています。福音とは「良きおとずれ」という意味ですが、神の王国で贖われ救われることができるという朗報です。

信仰 

第1原則の最初は信仰です。ヘブル語ではこの言葉は「信頼」を意味します。私たちは神に信頼を起き、神が私たちを導き救うことができることを信じなければなりません。旧約聖書の全体が信仰についての話からなっています。信仰がある例とない例です。イスラエルの子孫は何度も何度も試されました。彼らが神を信頼したときには救われ繁栄しました。自分の手の技に頼ったときには、それが偶像であれ軍隊であれ、打ち負かされ散乱させられました。信仰の大切な性質についていくつかの要点があります。第一に信仰は真実なことに基づいていなければなりません。例えばたとえ揺るがない信仰であっても、それがバーリム(偶像)に対するものであったら価値がありません。第二に、信仰は希望を伴っていなければなりません。主が私たちの従順さを認めて祝福してくださるという希望です。もし正しい生活を送って終わりまで耐え忍ぶなら、神は私たちに昇栄し御許に戻れるという希望です。第三に、行動に移すものでない限りそれは真の信仰にはなりません。アブラハムが自分の息子のイサクをすすんで生け贄として捧げようとしたことがその完璧な例です。天使がアブラハムのナイフを振り上げた手をとどめるまでアブラハムは行動に移しました。主が中断されたとは言え、その行為の故にアブラハムは義とされました。

悔い改め

原則の2番目は悔い改めです。ひとたび神が生きていらっしゃることを信じたら、神との隔たりを縮めるのが私たちの義務です。罪が神から遠ざけ、神の不評を買います。モルモニズムにおける悔い改めはユダヤ教のそれとまったく同じです。悔い改めはいくつかのステップを踏んで行なわれます。最初は自分の行いが罪深いものであることを認めることです。これはジョサイア王の経験を思い出させます。神殿の再建を始めた時のことですが、その当時神殿は使われておらず、修理も行なわれていませんでした。聖典が神殿の中で見つかり、それにはトーラも含まれていました。ジョサイアは律法を読み神がその子供たちについて期待していることを知ったときショックを受けました。ユダヤはあまりにも堕落していたからです。神の律法を学ぶ努力もしていませんでした。それではどのようにそれを守ったらいいのでしょうか。ひとたび自分の行動が罪深いものであると気づいたら自分を変える願望を育て神の期待に添うような生活をするように心がけます。悔い改めるためには罪を告白しなければなりません。ある罪は神に告白しますが、特定の罪は会衆の指導者に告白しなければなりません。特別な儀式などに参加する特権を奪われるなどの懲戒処分を受けるのも悔い改めの一部で、それは一時的なものであるのが普通です。モーセの律法のように、その当事者はできる限り自分の罪によって生じたことに対し償いをすべきです。最も深刻な罪は償いができないようなものです。殺人は犯してしまえば、その人の命を元に戻すことができません。不貞の罪は人の徳と信頼を奪ってしまいますが、それを償うことは不可能と言わないまでも難しいことです。傷つけた人のところに行って詫び赦しを乞うことは助けになります。悔い改めの最後のステップは罪から遠ざかり正しい生活をすることです。 大切なことは救い主であっても私たちが罪のあるままで救うことはおできにならないのです。たとえ主の名前を唱え真剣に信じてもです。主の恵みは私たちが自分の罪を祭壇におくことなしには私たちを救うものではないのです。

浸礼によるバプテスマ

メシヤはバプテスマのヨハネによって水に沈んでバプテスマをお受けになりました。バプテスマはアロン神権による儀式ですが、死と新たな出発を象徴しています。それはまた救い主の死と復活も象徴しています。祭司とレビ人がこの儀式を執行する権威を持っていましたがそれは失われてしまいました。預言者や十二使徒もこの権能を持っていましたが、彼らも殺されてしまいました。この権能は復活したバプテスマのヨハネが1829年の5月にジョセフ・スミスとオリバー・カウドリーをおとずれて回復しました。(ジョセフ・スミス歴史1:72) 浸礼によるバプテスマは自分の行動に責任を持ち、善悪の違いを見分けることができ、悔い改めの方法を理解できる人のための儀式です。小さい子供はそのような能力がありません。主は8歳のときにこのような能力が備わると宣言されました。この年齢からバプテスマを受けてモルモン教会に入ることができます。その時まで、幼児や小さな子供は両親の責任の元で世話を受けます。これらの子供が過ちを犯したなら、その責任は親にあります。ある人々は精神的な障害などで責任を持てるまでの成長ができません。幼い子供や精神的な障害者についてはキリストの贖罪が自動的に償いをしてしまいます。彼らがそのような状態で亡くなるならば、天の最も高い位である日の栄えの王国に救われ、神とともに住むことができます。

聖霊の賜物 

水のバプテスマの後、火または霊のバプテスマが来ます。バプテスマの後に教会の長老(メルキゼデクというより高い神権の位を持つ人)がそのバプテスマを受けた人の頭に手を置いて「聖霊の賜物」を授けます。ルアクハコデシュ(聖霊)は地上のだれに対してでも、促し、警告し、霊感することができます。しかし、この賜物を授かった人はふさわしい限り常に聖霊を伴とすることができるのです。 聖霊は汚れたところに宿ることができません。身体は聖霊が宿る神殿です。クリスチャンの中には神が宇宙を満たすほど大きいと同時に人の心に宿れるほど小さいという誤った概念を持っている人たちがいます。しかし、神様は栄光化された復活された存在です。私たちの心に宿ることのできるのは霊のお方である聖霊です。聖霊は慰め主です。真実を証します。神からの啓示を伝えます。この賜物を受けると自分の責任を果たすために必要な個人的な啓示を絶えず受けることができ霊的な事柄についての知識を増すことができます。

出エジプト、救いの計画を概観する

イスラエルの子孫がエジプトに逗留していた時、霊的に停滞していました。彼らを救出する時、主は彼らが祭司の国家になることを願っていました。絶えず彼らを教えました。出エジプトの際に起こった全てのことは救いの計画を象徴していました。そして彼らが主が時の中間に来られる時に自分たちの贖い主であると分かるように助けることを意味していました。 エジプトは一つの世界でありこの世的であることを表していました。主は彼らの罪を水(紅海)を通して救い出し、試しの荒野(死すべきこの世の生活)へと導かれました。そしてがんばって約束の地(天)に着きました。また、もしエジプトが象徴的に子宮を表すならばイスラエルの子供たちは水を通して生まれて地上の生活に入り、天を探し求めることを象徴しているのです。 イスラエルの子供たちでエジプトから出て来たもともとの世代の全員は荒野で滅びました。そのようにして神はこのイメージを繰り返し示されます。イスラエルの子孫をヨルダン川を渡って約束の地に導きました。このように、先祖と同じように生まれてきた世代もバプテスマの象徴を体験したのです。(ゲール・T・ボイド、畏れの日々)