毎週わたしたちは文字通り,また象徴として,命のパンと生ける水である聖餐を取ります。古代のニーファイ人と同じように,わたしたちは一人一人主の犠牲の物理的なしるしにあずかる機会があります。モルモン教会の十二使徒,L・トム・ペリー長老は「聖餐にあずかることによって,聖なる場所で聖なる瞬間を与えられます」と述べています。以下に聖なる場所で聖なる瞬間を持てるように助けとなる4つの意味のある方法を紹介します。

 

1.過ぎ越しと種入れぬパンの意味

十二使徒に聖餐について教えるキリストの絵と水が入った聖餐カップと一切れのパンの写真

過ぎ越しで使われるパンはわたしたちに救いをもたらす罪のないメシアであるイエスを思い起こさせます。

イエスは聖餐を過ぎ越しの祭りの最後に設定されました。その時主はパンを割き言われました。「これはわたしの体である。」(ルカ22:19)その時に生きているユダヤ人であれば,主の言われたことの特別な意味が理解できたでしょう。というのはご自分を現すように特別なパンを使われたからです。

過ぎ越しの間,種無しのパン(イーストのような発酵させる媒介がないパン)だけが使うことができました。同じ種類のパンが神殿の中で捧げられるすべての穀物の犠牲にも使われました。

その当時パンには古い発酵した生地を新しい生地に混ぜることによって種を入れました。これによって生地が膨らみますが,しかし放っておけばやがて酸っぱくなり腐ります。ですから,種を入れることは高慢,罪、霊的な衰退の象徴と見なされました。イエスだけが義に叶ってご自分を種入れぬパンにたとえることができたのです。汚染や衰退から完全に免れておられたからです。

アフィコメンと呼ばれる種入れぬパンの特別な一切れが過ぎ越しの食事の初めにナプキンに包まれ,隠されています。終わりになると,それが取り出されて,シーダーを先導する人がそれを細かく割き,そこにいる人たちに1つずつ配ります。考えられるのは,イエスはパンを割いて,それを使徒たちに配った時にこの習慣に倣っていました。

ユダヤ人の学者デヴィッド・デゥエイブは,アフィコメンはその当時メシアを代表するものであると理解されており,食事の最後に出て来るというのは主の到来が長く待たれていることを象徴するのでした。かくして,イエスが「これはわたしの体である」と宣言された時,主は大胆にご自分がメシアであると公言されたことになります。

なぜイエスは過ぎ越しの食事を,聖餐を導入する機会として選ばれたのでしょうか。何故ならばそこには毎週わたしたちに覚えておいて欲しいいくつかの教訓があるからです。

  • 主は傷のない過ぎ越しの子羊で,罪がなく,種入れぬパンです。主の完全な犠牲を通してのみ,わたしたちは清められ救いを得ることができます。
  • 主はイスラエルをエジプトから解放なさり,そのことを過ぎ越しの食事は焦点としているわけですが,それとともに主は同じ力を持ってわたしたちの生活で助けとなってくださいます。

このことを念頭に置いて聖餐を取る時に,わたしたちは主が罪のない方,わたしたちのメシア,わたしたちが救出,指示,平安を求めて頼りにする方であると信じていることを認めるのです。

 

2.聖餐はキリストの葬儀を記念する

キリストの遺体を白い布で包む弟子たちの絵と、聖餐の祈りを捧げる神権者とパス係りの神権者たちの写真

聖餐を葬儀として尊ぶことはわたしたちにイエスの死がわたしたちの永遠の生涯にとって必須の役割があることを思い出させます。

 

人生の頂点で亡くなるどのような若い男性のことも非常に悼まれるでしょう。とりわけ,その人が徳高く,親切で,信仰深かったら,また特にその人が悲惨で不正の死を遂げるならば人々の悲しみは格別でしょう。

そのような青年のための葬儀は,厳粛で哀悼の気持ちに満ちた友人が静かに彼の素晴らしい人生が残してくれたものを深く思い起こし,よりよい生活をしようと決意する時になります。棺が準備され,葬儀が開始される予定の時刻の遥か前から音楽が演奏されます。その集会はだれもがその人の生涯が彼らにとってどのような意味があり,どのように彼のことを思い起こすかという点に注意が向けられ,力強いものです。

聖餐は,キリストの贖いの犠牲,究極的な死,復活を象徴し,わたしたちの礼拝行事の中心です。これは本当にある種の葬儀です。話者は主を讃え,神権者が棺を運ぶ役を演じ,主の身体の象徴を配ります。

このように考えると,重要な教訓をいくつか与えてくれます。

  • わたしたちは一般に十字架の象徴を使いませんが,キリストの死は極めて重要で,わたしたちの永遠の生涯にとって必須のものです。
  • 公式的に設ける集会はだれかを思い出すための大切な手段です。聖餐会はわたしたちの聖約を更新する時で,またキリストを思い出すという聖約を守る機会にもなります。

イエスが亡くなったとき,東半球でも西半球でも地震が起こりました。西半球からは太陽の光がなくなりました。「御子の光」が東半球からなくなりました。

主の死は誰もが気づかざるおえなかったのです。それと同じように,わたしたちも自分たちのためになされた主の犠牲と死を認識せずに聖餐を過ごすべきではありません。

どのようなちゃんとした葬儀と同じように,わたしたちは早く到着し,準備し,厳粛で敬虔さを保ち,集会は讃え礼拝する方にすべての注意を向けるものです。

 

3.キリストの誕生とわたしたちの霊的な再生の象徴

お生まれになったイエスを抱くマリアとヨセフの絵と、聖餐台に並ぶ聖餐のパンと水の写真

聖餐式はイエスの誕生とわたしたちの霊的な再生の大切さを思い出させます。

ピラトに王であるかと尋ねられて,イエスは「そのためにこの世にきたのである」(ヨハネ18:37)と答えられた。聖餐は主の誕生の目的を,またその神聖な特質の現実を思い出すための手段になります。

ニール・A・マックスウェル長老は,「わたしたち一人一人は宿屋の主人でイエスのために部屋があるかどうかを決めるのです」と語りました。わたしたちが謙遜になって聖餐のテーブルにつく時、わたしたちは象徴的に主の馬屋に来るのです。あの博士たちのように,わたしたちはわたしたちの最良の贈り物である「砕かれた心と悔いる霊」を持って主をわたしたちの救い主と認めます。わたしたちの生活の中で主に対する部屋を造り,主をいつも覚えるという聖約をします。

聖餐を受ける時に,わたしたちはバプテスマすなわちわたしたちの再生の時に交わした聖約を更新します。ですから,聖餐が主の誕生とともにわたしたちの再生を思い出させてくれます。

誕生の象徴が教えてくれるいくつかの教訓があります。

  • わたしたちは清められています。わたしたちを新生児にたとえる以上に純粋さについてはっきり説明する方法があるでしょうか。
  • 聖約は厳粛なもの。わたしたちのふさわしさの代価がキリストの贖いです。わたしたちの再生は物理的な誕生よりも大きな犠牲と苦痛を要求します。しかしすべての母が証言するように,主のわたしたちに対する無限の愛があるために主にとってはそうする価値があります。
  • わたしたちは主のようになることができます。愛のある両親は子供たちが成長し,成人し,そして自分たちの得ているあらゆる喜びを経験して欲しいと望みます。それがまさしく子供たちを訓練する目的です。天の父は絶対的な愛をもった完全な親です。神はわたしたちがご自分がお持ちのものすべてを与え,ご自分のようにわたしたちがなることを望んでおられ,そしてその願いにそってわたしを訓練なさいます。

毎週わたしたちが聖餐を受ける時に,主の誕生のまたわたしたちの再生の目的を思い出させられ,わたしたちの生活の中に主の居られる部屋を設け,わたしたちの最良の贈り物を携え,自分のバプテスマの時と同じように真剣に聖餐のために備えます。

 

4.犠牲の祭壇にひざまずく

ゲッセマネで祈るキリストの絵と、聖餐の祈りを捧げる神権者の写真

聖餐のテーブルを祭壇と見ることはわたしたちに犠牲が必須のものであることを思い出させます。

アダムとエバがエデンの園から追い出されて以来,犠牲を捧げることが礼拝の中心になってきました。イエス・キリストの贖いまで,傷のない動物の血を流すことでその犠牲が行なわれてきました。その犠牲はイエス・キリストの犠牲の象徴でそれを示唆するものでした。

主の偉大で最後の犠牲の後,血を流すことによる犠牲は聖餐によって代わられました。しかし,それは犠牲を払うようにという戒めを破棄することにはなりませんでした。イエス御自身がわたしたちに,「あなたがたは打ち砕かれた心と悔いる霊を,犠牲としてわたしに捧げなさい」と命じられました。(3ニーファイ9:19−20)わたしたちのこのような犠牲はわたしたちに主がゲツセマネの祭壇で犠牲を捧げられたことを思い出させます。

この考えは2つの鍵になる教訓を説明しています。

  • 犠牲は救いに不可欠です。ジョセフ・スミスが教えたように,「すべてのものを犠牲にするように求めることのない宗教は決して命と救いにとって必要な信仰を生み出す十分な力がありません。」
  • わたしたちの犠牲は主の犠牲に頼れるようにする力強い手段です。  

福音の原則という手引きには,「わたしたちが喜んで犠牲を払うという意思表示をすることは,神への献身を表す指標です。人々はいつでも彼らが自分の生活の中で神を第一にするかどうかを試みられテストされてきました」と述べられています。聖餐のテーブルはわたしたちが犠牲を捧げる祭壇です。そこでは自分を捧げ,砕かれた心と悔いる霊を捧げることによって,癒され聖霊に満たされるように計らいます。

適切な準備には犠牲にする何かを持ってくることが含まれます。古代の人々は神殿に手ぶらで来ることはありませんでした。常に祭壇で捧げる適切な動物を携えてきました。そのことを念頭に置いて,ドン・R・クラーク長老は次のように約束しています。「もしわたしたちが聖餐にふさわしく準備するならば,わたしたちは生活を改革することができます。」

わたしたちが祭壇に自分自身を捧げる時に,わたしたちの生活は変えられるのです。

 

結論

聖餐は人生の中で何度も繰返される唯一の儀式です。わたしたちの大部分にとって,死ぬ前に何千回も聖餐に参加するでしょう。ですから,聖餐は容易に日常の繰返しになります。静かに考察する時ですが,それは必ずしも神聖で,真の意味で更新の時ではないかもしれません。

聖餐についてデヴィッド・O・マッケイ大管長は,「イエス・キリスト教会の中で聖餐ほど神聖な儀式が執行されることはない」と述べています。わたしたちが本当にこれらの考えについて深く思い巡らし、それを広げていくなら,聖餐の本当の大切さと深い象徴性についてもっと十分に理解するようなるでしょう。毎回聖餐を取る機会が、意味のある神聖な経験となるでしょう。

聖餐が神聖な場所で神聖な時となるように他に考えがありますか?

 

この記事はLisa Teixeiraによって書かれ、mormonhub.comに投稿されました。