ジェームズ・ザ・モルモンの新しいレコード”I Am Not a Rapper”(俺はラッパーじゃない)が、2016年4月28日付けのiTunesヒップホップ/ラップアルバムランキングで第三位を取得した。このアルバムは過去に1位を取得したこともある。
ジェームズ・カレン(彼の本名)は、このアルバムについてこう語っている。「このアルバムは、虐待的な幼少期や人間関係の中でのコミュニケーションに関する問題、離婚、争いごとへの対処法から、何が自分の意欲をかきたてるかまで、自分の経験を掘り下げています。」彼は、このアルバムが多くの宗教の人に広まり、モルモン教の会員によく見られる「白いシャツにネクタイで自転車に乗っている二人組」という虚像を取り除きたいと言う。
「僕は人々に、みんな違って、みんなそれぞれに試練や問題を抱えているということをわかってほしいと思っています。」と彼は言う。「『モルモン教』というのは、僕らが守るルールによって定義されるわけではなく、試練や災難にあったときに自分たちがどんな人になるかで定義されるものです。」
ジェームズ・ザ・モルモンについて
ジェームズは、彼のブログのなかで、14歳になるまではラップがなんなのかさえ知らなかったと言っている。彼の家族がワシントンDCに数年住むために引っ越した時に初めて、テレビでラップを耳にしたそうだ。 「ラップにはまるのにはジャ・ルール(アメリカのラッパー)の曲一曲で十分だった。それからはヒップホップに夢中になっていきました。」その時から、彼は耳にするすべての気に入ったビートに自分なりのメロディーと歌詞を載せ、自分だけのユニークなものにしていった。
ジェームズは、彼の幼少期は決して素晴らしいものではなかったと語る。彼は22歳で証を得てから今になって、彼の人生はじめの17年で負った痛みを癒やしてくれたのは福音、具体的にはキリストの贖いであったと認識した。証を得る前は、彼は日々の混乱からの癒やしをラップに見つけていたのだ。彼はこのように言っている。「ラップがどうしてこんなに自分に強い影響を及ぼすのか、どうしていつも癒やしを与えてくれるものだったのかと気付いたのは最近になってからです。」
彼は17歳で高校最後の一年をウズベキスタンのタシケントで過ごした。ある日、彼の弟の友達が、新しいコンピューターと、音楽を録音できる新しいソフトウェアを持って家にやってきた。彼は弟の部屋に呼ばれ、弟と友達がつくったというビートを聞いた。それから彼が二人に聞かせるために歌詞とメロディーをそのビートに合わせてつくるのに長くはかからなかった。彼らの興奮と前向きな反応がジェームズを勇気づけ、ラップの歌詞を書き録音するようになったのだ。
2004年、ブリガム・ヤング大学(BYU)の1年生のときに、彼は同期で入学した黒人生徒三人とアクラスというラップグループを結成した。2008年にはジェームズ・デヴィーンというヒップホップバンドを始め、彼自身が末日聖徒イエス・キリスト教会の宣教師として2年間の伝道活動にいくまでの間音楽を書き、録音し続けた。
ワシントン州エバレットにてロシア語での伝道をする間、彼は福音を友人や家族と分かち合うことを恐れ、嫌がる会員たちや、モルモン教の会員以外の人たちに自分の信仰を知らせることをためらう会員たちに落胆を感じた。彼は伝道から帰ると、自分自身と主に、自分の信じているものや守りたいものについて伝える機会を二度と逃しはしないと約束したのだった。家に帰ってから2日後、彼はソーシャルメディア上の名前をジェームズ・ザ・モルモン(@jamesthemormon)に変更した。
ジェームズはブログの中で、彼にとってラップは趣味だとつづっている。彼はお金持ちになったり有名なラッパーになることを望んでいるわけではないという。ラップを仕事にするつもりは全く無いし、自分の作ってきた楽曲でツアーをするつもりもないそうだ。唯一その気持を覆せるのは、ドレイク(アメリカのラッパー)が電話をかけてきてそうするように勧めてきた時だけだという。彼が重点を置いているのは、お金を儲けることではない。彼にとって、ラップを書く事自体が何よりも癒やしの力になるのだ。更に、彼はこれを通して人々をキリストに導くという、より崇高な目的を持っている。「モルモン教の信仰や教義について触れる楽曲を発表してはきましたが、混乱しないでほしいのは、僕はモルモン教のために音楽を作っているのではないということです。僕は、福音を分かち合う道具として使ってもらうために音楽を作っているのです。」と彼は話す。道具、と言っているが、彼の意味するところは歌によって人々を教えるのではなく、歌を人々に福音をわかちあうきっかけとしてほしい、というものだ。
ジェームズは最近モルモン書についてのビデオも発表しており、私たちのfacebookページに投稿されている。
この記事はモアグッド財団によって書かれ、キャンプベル・愛美が翻訳しました。