慈愛とは、キリストの純粋な愛と定義されています。主イエス・キリストに従う者であるわたしたちは、慈愛の心を持ち育むように教えられていますが、どうすればよいのでしょうか?
慈愛の心を持つために、慈愛とは何かを理解する
慈愛またはキリストの純粋な愛は、決して失望させることがありません。なぜでしょうか。救い主の私たちに対する愛には限りがないからです。贖いが無限で永遠のものであるように(アルマ34:10)、まさに全く同様に主の愛も尽きることがないからです。モロナイという人物はモルモン書の中の兵士であり預言者でした。彼は次のように書いています。
「慈愛は長く堪え忍び、親切であり、ねたまず、誇らず、自分の利益を求めず、容易に怒らず、悪事を少しも考えず、罪悪を喜ばないで真実を喜び、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(モロナイ7:45)
いかなる物語にも増して、御父が御子を世の救い主にされたこと、あるいは御子がこの世での使命を果たされる時にメシヤとなることを許されたことほど深遠な配慮はありません。ゲツセマネで主は祈られました。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい。」(マタイ26:39)
その聖なる園での私たちの罪のために想像を絶する苦しみにあわれた後、主はペテロによって切り落とされたマルコスの耳を癒しました。マルコスとは主を捕えに来た大祭司の僕でした。(ルカ22:51;マタイ26:51;ヨハネ18:10)
キリストは拒否され、つばを吐きかけられ、あざ笑われ、あざけられ、十字架にかけられ、ののしられたとき、叱責されませんでした。十字架上で極度の苦痛を受けながら、頭にはイバラの冠を被らされ、手足を太いぶ細工な釘で貫かれながら、答えと言えば、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」(ルカ23:35)
イザヤの預言は本当でした。
「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。」(イザヤ53:4−5)
イエスは、私たちの見捨てられ、拒まれる気持ち、痛みや悲しみ、苦しみや自責の念を経験されたました。そして、主は貧しさや、外見、考えが単純であるという理由で人をのけ者にすることがありませんでした。私たち一人一人に対して、主を救い主として受け入れる全ての人に対して、憐れみの腕は延べられ、主のもとに来て、御自分のようになる
ようにと招かれたのです。
永遠に尽きることのない主の愛
私たちは非常に豊かにあふれるほどに祝福され、永遠にまた完全に愛されています。私たちはフェローシップをし、思いやりを他の人に向けるようにという勧めを受けています。もしその勧めに従うならば、イエス・キリストは絶え間ない癒しの香油となり、どのような傷に対してもどのように深刻な罪に対しても、贖いの効力を及ぼしてくださいます。私たちはこの尽きることのない救援、癒し、恵みの源に近づくことができるので、私たちは慈愛を育てていく能力を持てるのです。しかし、私たちはキリストを知るようになり、主の私たちに対する愛を規則的に経験するまでは、本当の慈愛を育てることはできません。私たちが贖いの力が自分たちの生活に入って行くようにする時に、私たちは生まれつきの習性から来る束縛から自由になり、キリストの真の弟子となり、自分より他の人の必要を優先し、それらの人たちをキリストが御覧になるように見るようになります。
2009年10月のモルモン教の総大会で主イエス・キリストの十二使徒であるウークトドルフ管長は次のように述べています。
愛が大いなる戒めなので、それが、私たちが家族の中や、教会の召しや、職業において、私たちが行うあらゆることの中心にあるべきです。愛は個人的なあるいは家族の関係で生じた断絶を癒す香油です。それは家族、地域社会、国々を結束させます。愛は友情、忍耐、礼儀ただしさ、尊敬の念を育む力です。それは分断と憎しみを克服するための源です。愛は私たちの生活を比類のない喜びと聖なる希望によって暖めてくれるたき火です。愛が私の行動と会話の中心にあるべきです。(「神の愛」、エンサイン、2009年11月)
マービン・J・アシュトン(1915−1994)は十二使徒定員会の一員です。次のように語っています。
私たちはしばしば慈愛が病人を見舞い、食物を必要としている人のところに持っていき、私たちが余分に持っているものを恵まれない人たちに分かち合うことであると考えています。しかし、本当は、真の慈善とはそれよりもはるかに意味の広い概念です。本当の慈善とは何かをあげることではないのです。それは自分が身につけるもので、自分自身の一部になるべきです。そして、慈善の精神が自分の心の中に根付いた時には、自分は同じ人間でいることができなくなります。
たぶん最も大いなる慈愛は互いに親切にし合い、他の人を裁いたりレッテルを貼ったりせず、互いに相手に疑わせておき、口論を起こさないというような行為の中に見いだされます。慈善は人の違い、弱さ、欠点を受け入れ、自分たちをがっかりさせるような人たちに忍耐を持ち、傷つけられていると思う衝動を抑えることです。(中略)慈善は他の人の弱みに付け込まず、自分を傷つける人を喜んで赦すことです。慈善は相手に対して最善のことを望むことです。(「舌は鋭い刃物になりうる」、エンサイン、1992年5月、18−19ページ)
主に頼り、今日変わると決意する
私たちは他の人が語ったことや行ったことによってどれほど頻繁に傷ついたと感じていることでしょうか。どれほど頻繁に意図的であれ、そうでなくても、不親切な言及による痛みが私たちの存在を毒するようにさせているでしょうか。私たちが人を傷つけたり、自分を防御するというような壁を作ってしまうというパターンは進んで克服しなければならないものです。私たちは自己防衛の砦の裏に隠れていては慈善を育てることはできません。私たちは手に手をとって、心と心を合わせてともに働く業に従事しなければなりません。それは神が私たちに望まれることすべて行うことを天の父に証明するテストの一部です。傷ついた気持ちや怒りをいだき続けようと思う時に天の父に心を打ち明けて祈ると、平安と力が与えられて自分の生活を続けることができます。私は奇跡が起こるのを目撃してきました。私は救い主が私たちのことを配慮してくださり、主の戒めを守ることができるように道を開いてくださることを知っています。何故ならば主はまた私たちの傷に包帯を巻いてくださり、それを癒してくださるからです。
私はまた自分の経験を通して、イエス・キリストの生涯とその福音を学び続けることがとても必要であることを学んできました。そうすることが主の癒しの力によって絶えず自分が再新され、力づけられるために役立つからです。イエス・キリストについての第2の証であるモルモン書は、救い主の愛と癒しの力について思い出すように力強く働いてくれます。私たちがモルモン書を学び、キリストとその言葉とその行いについての証に注意を向ける時、主の愛や癒しがその元に来るすべての者に対して、また私たち一人一人に個人的に与えられるものであることを理解し始めるので、私たちの主に対する理解と主に対する信仰が強められるのです。私たちの理解が増すにつれて、また私たちが贖い主の愛をもっと十分に受け入れるにつれて、私たちはもっと自由に愛をほかの人々に向けることができます。私たちは悲しむ者に思いやりと共感を感じ、喜んでいる人たちとともに喜ぶことができるのです。私たちのとるそれぞれのステップが、慈愛という尊い賜物をよりよく伸ばすことに役立ちます。キリストとその福音が効果を出し始め、「それは彼の内で生ける水の井戸となり、そこから永遠の命に至る水がわき出るであろう。」(教義と聖約63:23)