死と言うと、どのようなイメージを抱くでしょうか。一般的には「悲しみ」「絶望」「永遠の別れ」など、様々あると思いますが、そのほとんどがマイナスな意味を伴うものです。しかし、モルモン教の教えは違います。もちろん、「悲しみ」は伴いますが、同時に「希望」があるのです。わたしは1人の友人の晩年から、この教えを学びました。

わたしの友だちのテリーは、今まさに死に直面している状態です。わたしは彼女の脳腫瘍が、なんとかして奇跡的に消えるように願い祈ってきました。これよりも大きな奇跡によって癒された人たちをたくさん見てきたので、そのように願うことは出過ぎた行為だとは思いませんでした。しかし、主には他のご計画があるようです。最近テリーのご主人と話す、すばらしい機会がありました。

 

 

テリーの夫から学ぶ                         

彼はわたしの嘆きを和らげてくれる見解を教えてくれました。あまりにも多くの人々がを終わりと考えています。しかし、わたしたちがテリーについて知っているのは、彼女は旅を始めたばかりだということです。わたしの心の目で見えることは、テリーが彼女の負担になっていた肉体を脱ぎ捨てて、において卓越した英雄になるに違いないということです。わたしは彼女のような霊的に優れた人に会ったことがありません。ですからわたしは、彼女がどうなるのか想像できます。わたしたちのテリーを引き止めるガラスの天井のようなものは何もありません。

彼女は、一連のことが始まったとき、彼女はこの経験から何を学べるのかを探し始めたと語っています。しかし、時間の経過とともに明らかになったことがあります。この試練によって与えられる教訓はテリーのためにではなく、わたしたち全員のためであるということです。彼女の優しい夫は、つきっきりで彼女の世話をすることを学ばなければなりませんでした。彼はテリーの世話をしながら仕事を続け、愛する人たちの近況を知り、自分たちの必要を満たし、家事を行いました。彼は信じられないほどの医学用語を学び、霊的な洞察力や成長に恵まれました。わたしはそのような責任を果たすことが、どれほど大変か想像することができません。彼はそれらを学び、その過程で自分の目標を失わず、自分自身を見失いませんでした。そのようなことは、テリーが予期していたことではないと思います。主が彼女の家族を助けてくださっていることを知っているので、そのことにとても感謝しています。そして、このようにしてわたしたち全員が成長する機会が与えられたことに感謝しています。

 

 

愛する人の危機にどう対応すべきか

わたしたちが似た状況に直面するとき、つまり愛する者が危機の状態にあるとき、どのように対処するでしょうか?わたしの最初の衝動はテリーの家に行き、彼女の手を取って泣くことでした。しかし、そうすることはテリーにとって祝福でしょうか、あるいは難儀なこととなるでしょうか。彼女は生きるか死ぬかの真ん中に立たされています。自分の感情をコントロールできていないわたしが訪ねることが、祝福になるでしょうか。そうではないでしょう。事実、こんな時こそわたしたちの行動が、その状況で役に立つのか害になるのか吟味しなければなりません。もし自分が望んでいるような助けができていないと思うならば、再考して、本当に助けになれるように別の方法を選ぶべきでしょう。

テリーの友だちの一人が、この危機的状況の中で「町の叫び手」の役割を果たしました。昔、王は「町の叫び手」にメッセージを委ねました。その人は町の人々に情報を伝える人で、広場に立って「聞いてください、聞いてください!」と叫び、続けてメッセージを伝えます。非常にたくさんの人々がテリーのことが好きで、みんな彼女がどうしているか知りたがっています。しかし、もしわたしたち全員が電話したり立ち寄ったりしたら、彼女の家族はすっかり参ってしまうでしょう。彼女のような状況では物事がどんどん変わるので、メッセージが混乱してくるのは当然のことです。

そこでその友だちが、みんなが知ってもよいニュースがあれば、何でも伝えるようにしてくれました。テリーと家族が好きで、常に彼女についての情報を得たいと思っている友人にとって、それはすばらしい祝福となりました。この友だちは困難な状況で助けになる方法を見つけたのです。

何年か前に、もうひとりの友だちの家族の中に亡くなった人がいました。そして彼らの親しい友だちが来て、その一家の電話係になったのです。彼女はあらゆる電話に応対して、その家族が数日間平安な時を過ごせるように助けました。人々は悲劇を知って、助けたいと思いました。その電話係りの友人は他の人ができない方法で彼らに情報を伝えることができたのです。彼女は落ち着いて対応でき、メッセージを受け取り、必要とされている情報を伝えることにより、その家族が対応できないほど多くの人々からのコンタクトを引き受けることができたのです。その友だちは大変なときに祝福となる方法を見つけたのです。

身内が亡くなろうとしている家族は支援が必要です。そして、その支援は単に物質的なことだけではありません。テリーのご主人は、自分たちのために捧げられているすべての祈りを感じると言ってくれました。そして、正直に言うと神が最終的な癒し手であり、強めてくださる御方です。主がだれかを引き上げることができ、わたしたちのような単なる人間には望んでもできない事ができます。愛する人を失うとき、その困難の中で天の力を祈り求めることが最も愛を示す方法の一つで、祝福をもたらすことができます。家族を訪問して、その状況に関する自分の想いを伝えることも感謝されるでしょう。わたしは祖母が亡くなったときのことを永遠に忘れないと思います。一緒に時間を過ごし、話し、様々な視点を分かち合ったことが慰めとなりました。物事を新鮮な視点から見ることによって、通常見過ごしにしてしまうような祝福や教訓が明らかになることを学びました。

 

 

愛する人の晩年から学ぶこと

何よりも、苦しんでいる家族の所に行くときに利己的であってはなりません。大声で泣きたい時があるかもしれません。しかしそれは、死に直面している愛する友人を傷つけてしまうかもしれません。友人は起こっている状況をコントロールすることができないのです。そして、死の床に伏している人が痛みの中で一番感じたくないのは、自分のせいで周りの人を傷つけていると分かることです。このような状況では、自分の感情的な限界を知っておくことが求められます。友だちと話す時間をとりましょう。友から学んでください。この世を離れようとしている友人は、天を隔てる幕にとても近いのです。彼らの見解があなたの人生を変えることになるでしょう。わたしたちが死に向かっているときに、何もかもが鮮明になり、これ以上ないくらい心が澄んでくるのです。そのような状態に到達した人の見方に耳を傾けられるのは何という祝福でしょうか。

テリーはすばらしい女性です。彼女は永遠の世界へ旅立とうとしていますが、まだ他の人たちのことを考えています。彼女は苦しみや傷つけることの原因にはなりたくはありません。彼女はそのことで本当に苦しんでいます。これは難しいことです。しかし、彼女の愛と他の人々に注意を向け続ける態度は、彼女がどれほどすばらしい霊的な力の源であるかを物語っています。もし愛する人がひどい病気を患っていて、永遠の世界に向かっているときに、あなたは彼らから学んでいますか?あるいは自分のこと、自分の苦しみ、自分の計画を考えることに時間を費やしていますか?このような瞬間は短く、かけがえのないものです。わたしはテリーと知り合えたことに感謝しています。わたしは彼女と、彼女の家族とともに素晴らしい経験ができることに感謝しています。わたしが祈るのは、わたしたちみんながこのような機会を活かして、成長し教訓を得ることです。そうするならばわたしたちは永遠に祝福されると信じています。

 

 

 

この記事はパティー・サンプソンによって書かれ、LDSブログに投稿されました。翻訳者は有泉芳彦です。