召しを心にとめる

ブリガム・ヤング大学2年生の終わりに、ハリーは、伝道に出るために申請書を提出すると言いました。わたしは胸が締めつけられる思いがしましたが、彼の決意を尊重しました。

伝道の召しが郵便で届くと、わたしたちは25人の家族や友人と、ハリーがその封筒を開けるのを見守りました。息子は手紙を読み上げ、北イタリアのミラノ伝道部に召されることが分かりました。

わたしの胸は熱くなり、小さな歓声を上げました。わたしの祖父の祖国であるイタリアは、ハリーもわたしも馴染みがあったので、これはわたしにとって神さまからの個人的な祝福であることを疑いませんでした。わたしは、多くの友好的なイタリア人たちは、息子を温かく迎え入れてくれ、食事に招いてくれるだろうと確信していました。

2006年9月のある曇りの日に、わたしたちはハリーを宣教師訓練センターまで送りました。わたしはきっと感情的にボロボロになるだろうと想像していましたが、実際その日を迎えてみると、わたしの感覚は麻痺しているかのようでした。

宣教師訓練センターでのお話は、意外にも明るい雰囲気で、ユーモアのある楽観的なメッセージでした。それでも周りを見渡すと、多くの人たちが涙を拭っているのが見え、悲しみを感じているのはわたしひとりではないことが見て取れました。 ハリーとの別れのとき、わたしは彼の手を強く握りしめ、惜しむかのように息子の指を一本一本離し、彼が歩いて離れて行くのを見守りました。

メリーランドに戻ると、無感覚だったわたしはむせび泣き、悲嘆にくれるようになりました。しかし、宣教師訓練センターで力強い何かを感じたわたしは、家に戻るとチャックに、モルモン教会が真実ではないなんてことはありえないと思うと話しました。彼は、かなり驚いたようでした。わたしはハリーが改宗した当初から、モルモン教会に対して反対する感情はないけれども、わたしがモルモンになることは決してないと断言していたからです。

ハリーが伝道中の2年間、わたしと息子は毎週長いEメールのやりとりをしました。電話で話をするのを許されるのは、クリスマスと母の日だけでした。息子に会いたい思いが強まるにつれ、わたしは実際に会いに行こうと決意するようになりました。わたしはモルモン教徒ではなかったので、臆することもなく何度も許可を求めました。

毎回、許可を求めるメールを書くたびに、思いやりのある伝道部会長は電話で、親が宣教師に会うのはなぜよくないかについて説明してくださいました。わたしが会いに行くことにより、息子の気持ちが乱れ、平静を失う可能性がありました。また他の宣教師たちは、なぜ自分たちは親に会えないのだろうかと思うかもしれないと説明を受けました。しかし、わたしはどうしても息子に会いたい気持ちを抑えることができず、最終的に会う許可をもらいました。

伝道中の息子と他の宣教師たち

写真はLDS Livingより

わたしとチャックは、イタリアのベルガモで再会しました。ハリーは他に7人の宣教師を連れて来て、わたしたちは一緒にジェラートを食べました。他の宣教師たちの優しい笑顔を見ると、わたしは罪悪感で涙を流しました。そして、わたしが会いに来たことで気を悪くしないか心配だと話しました。彼らは皆、わたしに会えて嬉しく思っており、また息子と離れていることは辛いことを理解していると強く言ってくれました。

「会えてとても嬉しかったよ。僕もお母さんに会えなくて寂しいけれど、ここが僕がいるべき場所であることを知っているんだ」とハリーは後にメールに書きました。

わたしは、時間は経つものではあるけれども、必ずしも早く過ぎるわけではないことを学びました。わたしたちは、ワシントン・ダレス国際空港で、伝道を終えて帰国するハリーと再会しました。

わたしは、ハリーの大人に成長した姿に驚かされましたが、彼が電話で流暢にイタリア語を話すのを聞くと深い喜びに満たされました。わたしが子供の頃、祖父がよく家でイタリア語を話していたのを思い出しました。