6.「わたしの友人がバプテスマを受けなければ、失敗だ。」
わたしたちは、結果で努力を計ろうとすることが多すぎます。わたしたちは宣教師に「何人にバプテスマを施しましたか?」と聞くことがありますが、結果によって努力を計ろうとするべきではありません。結局のところ、努力のもたらした効果を知ることは不可能なのです。アビナダイは誰にもバプテスマを施しませんでした。にもかかわらず、彼の働きがもたらした成果を見てみてください! 彼はその人生のうちにその成果をみることはありませんでした。わたしの伝道部会長だったウィルキー会長は、よくわたしたちに言いました。「この伝道部では、バプテスマのまえに9回教会との前向きな接触があることが平均です。」あなたは、その人にとって最初の接点かもしれないし、7回目かもしれません。9回目の接点となる人もいるでしょう。しかし、どの人もそれぞれに役割があり、最初がなければ3度めもなく、8度目がなければ9度目も成功し得ないのです。人を探すにあたり、成功するためのルールが一つあります。福音を分かちあおうとしましたか?したのなら、それは成功です。わたしたちは他の人達の選びをコントロールすることはできません。わたしたちは、彼らの行動によって自分たちの努力を計ることはできないのです。しかし、自分自身の行動によってなら計れます。わたしの伝道部では、「学ぶことの勧め」と呼ばれるものがありました。これは、自分たちのするべき努力は話をし、手を差し伸べて分かち合うことであるということをわたしたちに思い出させてくれました。彼らが聞いたり、受け入れたり、またはそれに基づいて行動を起こすかどうかは、彼らにかかっていました。
人の霊をかけたこの戦いで、わたしたちが集中すべきは努力であり、数字やノルマや結果ではないのです。
「数えられるものはたくさんありますが、それらはそれほど大切ではありません。数えられないものこそ、本当に大切なものです。」(ディーター・F・ウークトドルフ管長)
7.「わたしは帰還宣教師だから、わたしの伝道は終わっている。」
帰還宣教師の間に悲劇的な考えがあります。「わたしは責任を果たしたから、現実の生活に戻る時がきた。」もしこれがあなたの思っていることなら、あなたは伝道で一番大切な教訓の一つを見逃しています。 そしてペテロのように、自分の仕事に戻ってきてしまったのです。
その教訓とは何でしょうか。ただ良い人になるのではなく「キリストに従う」こと、そして周りの人が道を見つけ、キリストに従うのを助けることです。あなたはすでに、永遠に「彼の羊を養う」ことを聖約しているのです。わたしがこれを学んだのは、ホランド長老の以下の言葉を聞いた時で、その経験はわたしの人生を変えました。(以下の文章は彼の話の最後の8分間ですが、わたしはこの話を最初から最後まで聞くように強くおすすめします。もし全部聞く時間が無いのであれば、以下の文章がわたしに一番影響を与えた部分です。)
「あなたは今夜、自分が神を本当に心から愛するという目的に徹した道を選ぶ決意をしなければなりません。心から救い主を愛するのです。もちろんそうだと思いますし、そうであるように祈っていますし、わたしたちは皆一緒にそのようにするのですが、あなたが心からそのように主を愛するとき、その愛を口にするとき、そしてあなたがそれを信じるとき、あなたに与えられる召しは永遠に彼の羊を養うことです。
さて、あなたはなぜその道を戻るべきではないのか、戻ってはいけないのか、そして戻れないのか、わかりますか?戻っても、以前と同じではないからです。ペテロ、あなたは家には帰れません。あなたは漁師に戻ることはできないのです。あなたの船に戻ることはできません。これで終わりなのです。これは新しい人生で、新しい日で、新しい時間です。この伝道はあなたの人生でそういった時を表します。もとに戻ることはできません。あなたがもし人生をもって、または少なくともこれから先二年間か一年半のあなたの人生をもって教えを説くと固く誓ったイエス・キリストの福音に背を向けるのであれば、それはわたしの心を傷つけ、神自身の心を傷つけるでしょう。しかしわたしが一番言いたいのは、これはたった一年半ではなく、たった二年でもないということです。わたしは今、49歳にしてここに立ち、この経験がずっと終わる事のないようにと祈っています。あなたにとってもずっと終わることのないように、わたしは祈ります。
もしあなたがこの伝道の間、またはその後に、この信仰を去るように誘惑を受けたり、罪を犯すように、または心の正直さを捨て、交わした聖約から離れるように誘惑を受けたりしたら、もちろんわたしたちは完全ではなく、毎日悔い改めをする必要があることは承知の上ですが、少なくともあなたのとどまる道は正しくなければなりません。あなたはその道にとどまらなければなりません。その道の先を見据えるべきです。後戻りはできないのです。あなたはすでに網を捨て、これからは羊を養っていくのです。あなたは救い主イエス・キリストの弟子になるのです。今から、永遠に。
あぁ、ユタ州プロボに座っている19歳の青年にとってはなんて重い責任でしょうか。または21歳かもしれませんし、どこにいても同じことです。しかしこれこそがすべてなのです。「あなたはわたしを愛しますか?それなら、わたしの羊を養いなさい。永遠に。」
8.「伝道するには忙しすぎる。」
神はわたしたちに丸一日を与え、たくさんのことをするように言いました。わたしたちは人生でそのバランスを見つけなければなりません。ダリン・H・オークス長老の「良いこと、より良いこと、最も良いこと」はとても参考になります。福音を分かち合うのに、あまり時間はかかりません。その上、もしあなたが正しく生きていて、福音を分かち合う機会を探し求めて祈っていれば、それは与えられますし、そういった機会は要する一分一分を費やす価値のあるものです。
家族を強めることを除けば、救いの業はあなたが携わることのできる業のなかで、最も重要なものであることを覚えておくのは大切なことです。同時に、救いの業に携わるのは、あなたの家族のためにできる最高の事の一つでもあります。それに加えて、あなたが永遠の家族を築きたいなら聖約を守ることは必須ですし、あなたは救いの業を推し進める聖約をかわしているのです。
9.「神はわたしの祈りには答えてくださらない。」
宣教師はいつも、「福音を分かち合う機会を求めて祈ってくださいますか?」と聞いてきます。わたしが伝道から帰った時、わたしは何気なくその「機会」を求めて祈りましたが、機会は与えられませんでした。去年(2015年)の4月、わたしはそれについて考えていました。神はすべての信仰のある祈りに答えられるはずです。わたしは信仰を持って、心からの決意を持って祈るべきなのです。わたしはこのように祈りはじめました。「お父様、お願いです。明日、誰かと福音を分かち合う機会を与えてください。わたしが証をする機会、または誰かを助ける機会をください。」わたしがこれを書いている今は5月半ばです。今までに、わたしは多くの人と福音を分かち合い、証をし、5冊のモルモン書を人々に渡し、宣教師と会うことに同意してくれた3人のひとたちを宣教師に紹介する機会に恵まれました。これらすべての「機会」は神から来るもので、福音を分かち合う機会を求めたわたしの祈りへの答えなのです。
神は祈りに答えられます。福音を述べ伝える機会を求めて祈ってください。そして、その経験を分かち合い人々を高めましょう。そうすることで、彼らが伝道の機会を祈り求めるよう励ますことができます。
10.「自分には福音を聞く準備のできた友人はいない。」
これについては、わたしの伝道中の経験を分かち合いましょう。
会員との夕食の後のレッスンが終わり、だれでも知っている質問が尋ねられようとしていました。「誰か福音を分かち合える人がいませんか?」「います。」とその会員は答えました。「でもその人はまだ準備ができていません。」宣教師たちはこういいました。「聖霊は、彼らの準備ができているとあなたに伝えています。」「分かりました、ではわたしの友人グレンに…」
この会員が「準備ができていない」と思ったこの友人は福音を受け入れ、バプテスマを受け、この話をわたしたちにしてくれました。「わたしは”準備のできていない友人”でした。だからこそ今日わたしはあなたたちの前に立ち、裁くのをやめて聖霊の導きに従うよう勧めます。」この人はそのとき、わたしたちの伝道部の第二顧問として奉仕していました。彼はわたしたちにこう教えました。「わたしたちは誰が備えられているか知りません。知っているのは聖霊です。」
わたしはその会員が彼と福音を分かち合うという聖霊の導きに従ってくれたことに感謝しています。わたしはグッドリッチ会長から多くを学んだのですから。
11.「福音を分かち合えば、友達を失うかもしれない。」
これが、会員がもっている一番大きな恐れです。この友人を愛しているから、福音を伝えることで友情を壊したくない。その友人への愛を持って、聖霊がその友人と福音を分かち合うことへ導いてくれるように祈り、断食してください。もし聖霊に従って、その友人があなたに怒りを表すなら、自分にこう聞いてみてください。わたしが愛しているのは神か、人か?いつも愛によって行い、人々があなたの愛を「感じる」ことができるように助ければ、ほとんどの場合は気分を害するようなことは避けられます。
まとめ
救いの業はこの教会の目的です。1982年4月、スペンサー・W・キンボール大管長は教会の目的についてこう語りました。
「この教会の目的は3部から成ります。
1つ目は、救い主イエス・キリストの福音をすべての国民、民族、国語の民、人々に宣言すること。2つ目は、福音の儀式を受ける備えをさせることにより、また昇栄を得るに必要な指導と訓練を行うことにより聖徒たちを全き者とすること。そして3つ目は、この世を去った人々のための身代わりの儀式行うことにより、死者を贖うこと。
この3つは全てひとつの業の一部となるものです。その業とはすなわち、「人に不死不滅と永遠の命をもたらす」(モーセ書1章39節)という壮大な栄光あふれる目的を持った天父と御子イエス・キリストを助けることです。わたしは今日この宣言を新たにするものであります。」(スペンサー・W・キンボール大管長)
わたしたちの人生と、この救いの業に関する努力を今一度見直してみましょう。救いの業を推し進めることは、好きなものを選び辛いことは避けるバイキングテーブルではありません。わたしたちが行うと聖約した救いの業の3つの局面においてあなたの努力を見直し、より良くすることを決意し、すべてのエリアで目標を立てましょう。立ち上がり、聖約を守る民になろうではありませんか。救いの業を楽しみましょう!これは大変な業です。わたしはそのために人生を変えなければなりませんでした。しかしキリストに従い、彼の羊を養うことは、それらすべての努力を注ぐ価値のあるものです。
この記事はJeremyによって書かれ、mylifebygogogoff.comに投稿されたものを編集しました。