新しい年:新しい目標

新しい年:新しい目標

私は新年の時期が好きです。古いことが終わって,新しいことがやってくるからです!わたしはいつもすべての物事を組織することにこだわってきました。新年のために奇麗な新しいプランナーを買いに行くのは,子供たちがキャンディーストアーに買い物に行くのに似ています。私は新年の目標を立てるのも好きです。それはもっとよい妻になる,大声で怒鳴らないなどの目標です。

不運にも,わたしは目標を奇麗な紙に書いて家の中の特別な場所に張っておくのは得意なのですが,実際にそれを実行するのはそれ程良くできません。それで,新年を迎えたこの時期にどうしたらいいものかと考えています。通常この何年かに起こったことを振り返り,自分が何をやってきたかを思い出します。今年は,それをすることさえしませんでした。私はそれだからあまりにも多くの人は新年の抱負を考えるのが嫌だというのかもしれません。目標を立てるものの,その半分は実行に移せません。それは真実です。そうなることは事実のように思えます。生活は忙しくなり,目標を忘れてしまいます。わたしは飛び抜けて自制心があるというわけではないので,確かに後ろめたい気持ちがあります。しかし,目標を立てることが大事だと思っています。私は自分の目標だけでなく,家族の目標を立てるのが好きです。

今年は不可能なことにチャレンジする代わりに,生活を実行可能なものにしたいと思います。今年は,「リスクのあることにもチャレンジし,失敗し,ごった返しになる!」これが,実際フリズル婦人が「魔法のスクールバス!」で語った言葉です。わたしには常に沢山の見たり,やったりすることのリストがあります。その半分くらいはわたしが決してやらないようなことですが,考えること自体が楽しいことです。例えば7つの大陸のすべてに足を踏み入れるとかです。わたしにはまた実行可能なものもあります。例えば池でアイススケートをするとか,縫い物のクラスに出るとかです。今年はこのリストから1つのことを毎月やるということにしました。

私にとっては毎日の単調なことをやることで一日が終わってしまうと感じ,毎日やることがあまりにもあって「忙し」く,少しは生き生きと生活することが可能なはずなのですが,それを忘れます。ですから,今年は忙しくて「普通はする時間がない」ことをやります!わたしに娘が生まれたとき,子供ができる前には「する必要がなかった」あまりにも多くのことをしなければならないことに気づきました。ある意味でその時、自然に自分のやりたいようにできる独身の生活は終わったと感じました。しかし,そう決めつけなくてもいいのです。わたしは家族を含めることで,彼らが入ることで素晴らしい思い出を作ることができます。わたしは自分が「縛られている」とか,やりたいようにやる時は過ぎたと考える必要はありません。何故ならば,今やわたしの背後にはチーム全員がいて,わたしが自分の目標に向かって進む時にわたしと一緒に居てくれて応援してくれるのです!

イエス・キリスト

イエス・キリスト

今年は去年よりよく物事をするというのは良い考えです。でも、わたしは失敗したとしても自分にあまりつらく当たらないようにするつもりです。それはやむを得なく起こります。避けられません。それはわたしを悪い人にするとか,悪い母親や妻になるというわけでもなく,ただわたしを人間らしくします。モルモン教の会員であることの1つは,ごく若い時に贖いについて学ぶことです。キリストがわたしたちのために命を捨てて下さったことで,わたしたちが間違う時に,悔い改めて新たにスタートできます。1年待って新しい目標を立てて新たにスタートするという必要はないのです。贖いによって,わたしたちの失敗がたとえどのように大きくとも,毎日新たなスタートをすることができるのです。

「子供たちに怒鳴らない」という目標を設定する代わりに,その点をよくするために毎日少しずつ改善することに焦点を向けるだけで良いのです。昨日は日が悪かったということであれば,それはそれでいいのです。一日の終わりに,天の父に目を閉じて祈ることができ,そして新たなスタートが起こります。今日よりは明日をよくすることができます。明日は新しい日だからです。

モルモン教の十二使徒定員会の一員であるデビッド・A・ベドナー長老のお話を先日読んでいましたが,その中で次のように語っています。

「昨日より今日が少しよければそれで十分です。」(ベドナー,デビッド,「教義に従って行動する」,2012年)

ベストを尽くせば十分です。それが天の父がわたしたちに望んでいることです。神は私のあるがままで愛して下さいます。わたしもそうすべきだと思っています。