プロの総合格闘家ウェスティン・ウィルソンは自分が信じる宗教と総合格闘技の仕事が対立しているとは思っていません。現実には二児の父親である彼は自分の名前と知名度を福音を分かち合うための機会として用いています。
賞金の什分の一を払うことについて話すことから始まり、リングの中でも外でも標準を守って生活しているというモルモンの信条をインタビューで話すなど、ウィルソンは自らの信条を分かち合うことを躊躇しません。「僕がしているスポーツには教会の会員は多くないので、他の人の模範になることができ、これまで何回もすばらしい伝道の経験がありました。・・・そのために多くの偏見を打ち破ることができたのです」とウィルソンは言います。「僕が教会の会員であることは皆が知っています。・・・総合格闘技の格闘家の間にはある種のパーティー文化がありますが、僕がそこに参加しないことは皆知っています。それで『なんか変わってない?』と聞かれたら知恵の言葉について話します。また、日曜には練習をしないということもはっきり伝えてあります。」
ウィルソンは自分がなぜ信じているか分かち合う機会を探し、信条を守って生活していますが、仲間たちの信条にも敬意を表します。「僕は自分の信条に従っているだけです」と彼は言います。「誰にも何も押し付けようとはしません。」
ウィルソンはモルモン教徒についての偏見を打ち破っていますが、同時に教会の中での偏見も打ち破っているのです。
「教会での偏見とは総合格闘技というものは残酷で、暴力的で、虚勢を張った男たちがやっているスポーツだというものです。でも戦う時はお互い平等です。宗教、肌の色、信条、社会や経済的地位に関係なく強い人が勝つのです」とウィルソンは言います。
続けて「僕は自分が暴力的な人間だから戦うというのでもなく、怒りを持っているから戦うのでもありません。そのような理由で戦うのではありません。信仰箇条第13条について考え、そこには『わたしたちはすでに多くのことを堪え忍んできており、またすべてのことを堪え忍べるようにと望んでいる』とあり、『そしてどのようなことでも、徳高いこと、好ましいこと、あるいは誉れあることや称賛に価することがあれば、わたしたちはこれらのことを尋ね求めるものである』とあるから戦うのです。」
ウィルソンは総合格闘技をすることにより、さらに堪え忍べるようになり、言葉の問題があっても友情を築く助けとなり、生活の中で福音についてさらに深く理解するようになったことが分かりました。
総合格闘家であり父親でもある
小学5年生の時から、ウェスティン・ウィルソンはプロの総合格闘家にあこがれていました。当時、ウィルソンは自分で言うところの「遅咲きの花」、「低身長のチビ」でした。そんなウィルソンは高校時代、背の高さは問題でなかった一つのスポーツを楽しむようになりました。それはレスリングでした。
しかし父の仕事、麻薬取締局の転勤でブラジルに引っ越した時、ウィルソンは転校先にはレスリングのクラブがなかったことを知りましたが、家の近くに総合格闘技のジムがあったので、そこですぐにトレーニングを始めました。高校生の終わりから伝道中、身長が30センチほど伸びたので、もうチビとは言われなくなりました。そしてその時にはすでに好きなスポーツを見つけていました。
実はウィルソンは男らしいスポーツが好きで競うことが好きというわけでは全くないのです。小さな娘が二人いるので、「確かに筋肉がそがれますよ」と冗談を言います。「・・・娘たちのおかげで間違いなくもっと心が細やかになっています。『アナ雪』はおそらくもう100回くらい見たし、女の子向けのほかのお姫様の映画も見ています。」
実際にウィルソンの試合に向けての練習を見る機会があれば、練習の合間に3歳の娘さんとダンスしている姿を見ることがあるかもしれません。「家族がいることが僕のやる気の一番の力です。それで子供がいると、家族がモチベーションとなり、頑張るようになります。自分ひとりじゃないからです」とウィルソンは言います。
現実にウィルソンが1年以上前に前十字靭帯に裂傷を負った時、辛い回復の道のりは彼の持つユニークな考え方で乗り切ることができました。
「前十字靭帯の裂傷での1年間の休業期間は、不幸な出来事を通してもたらされた最大の祝福の年となりました」とウィルソンは言います。「福音のおかげで自分はこのような考え方をすることができるのだと思います。・・・僕はスポーツにばかりに目が向いてしまっていたので、神様から『ちょっと立ち止まりなさい。再度、優先順位を整えましょう。奥さん、子供、その他のこと、それから格闘技が来るんですよ』と言われたみたいです。・・・勝ち、負けはほんとうはどちらでもいいんです。結局はいつも家族がいて、福音があって、これが大切なものなんです。」
総合格闘技が福音とどのように通じるか
「試合になると、目の前のことにしか集中できません。リングで起きているすべてのことを見ているわけではありません」とウィルソンは言います。「(でも)何でも見えるコーチがいるんです。彼はリングの外から見ることができます。たくさんの騒音もあります。観衆の叫び声、レフリー、審判、音楽―その中でわたしはコーチの声を聴けるように訓練しなければならないのです。それは人生にも通じます。いろんなことが起こっていて、わたしたちはたくさんの違うことに心を向けて、それに心を奪われることも、聖霊に耳を傾けることもできるのです。でも聖霊との関係を維持していないといけません。その関係を築いていないといけません。コーナーに知らない人がいて「おい、おまえこれをしろ、あれをしろ」と言わせておくわけにはいかないんです。僕はそのようなものは信頼しません。でもコーチがいれば、コーチを100パーセント信頼するのでコーチが『キックしろ』と言えば、キックします。」
「これは天の御父や聖霊との間に築かなければならない関係と同じだと学びました。僕はそれには小さくて単純なことを行うことにより、そうなれると学びました。・・・サタンも小さくて単純な手段を用います。わたしたちが聖典勉強をしないように、教会に行かないようにサタンが仕向けることができれば、小さいことでも最終的にはちりつもになるのです・・・練習を何度も繰り返して行うなら、動くことはより簡単になります。これは証や福音でも同じことです。何度も繰り返せば、つまり祈れば祈るほど、召しを果たせば果たすほど、より簡単になって、自然になります。主から何かをするように言われる時、わたしたちはできるようになります。」
福音を中心とした生活を通して、ウィルソンはモルモンの総合格闘技家としての偏見を打ち破るために、より大きな動機を発見したのです。
「僕は試合を通して、それがリングの中であろうと外であろうと、ほかの人に元気を与えたいと思っています。特にモルモンの青少年にはそうです。彼らにはいろんなことをしながらも同時に教会で活発であって、福音の標準に従うことができることを分かってほしいのです。たとえその仕事ではパーティーや、知恵の言葉の問題や、安息日を破ることが普通のことであっても、仕事に秀でて成功するために福音の標準をあきらめる必要はないのです。」
この記事はもともとDanielle B. Wagnerがwww.ldsliving.comに“How a Mormon MMA Fighter Uses His Fame to Share His Beliefs”という題名で投稿したものです。
日本語©2017 LDS Living, A Division of Deseret Book Company | Englsih ©2017 LDS Living, A Division of Deseret Book Company
私もitfテコンドーやカンフーなどを習っています。
今回の記事を読むことにより、神を一番にすることを、また、安息日を守ることを学びました。
Naoki兄弟、素晴らしいコメント、ありがとうございました!似ている分野で頑張っている兄弟姉妹を見ると、励みになりますよね!神様が言われることには必ず道が備えられています!