今日という日を生きていますか?「今日」喜びを見出していますか??
神様はわたしたちに救いの計画(「幸福の計画」とも呼ばれます)というものを用意されており、その目的はわたしたちが永遠の喜びを得ることです。主は言われます。「アダムが堕落したのは人が存在するためであり、人が存在するのは喜びを得るためである。」モルモン書の3ニーファイ28:10では次のように言っています。「このために、あなたがたは満ちみちる喜びを得、父の王国で座に着くであろう。父が満ちる喜びをわたしに与えてくださったように、まことに、あなたがたの喜びは満ちるであろう。そして、あなたがたはわたしのようになる。わたしは父のようであり、父とわたしは一つである。」しかし、主は天に戻ってからだけではなく、この世にいる間でも喜びがあるように望んでおられます。
アメリカ軍で働くクリスが人生の旅路に見出した喜びについて振り返っている記事を見てみましょう。
人生に喜びを見出す
私はつい最近ヨルダンのハシェミット王国へ行ってきました。そこは古代遺跡や土地の古い習慣が残っている地域で、私にはすべてが新鮮で、その旅では些細なことにも大きな喜びを見出していました。すべてが新しい冒険でした。その後、家に戻った私は現実に引き戻されます。現実の生活に喜びを見出すのはそんなに簡単ではありませんでした。「学校さえ終わっていたら、私は幸せだったのに。」
人によっては毎日の苦労に耐えるのは自然のことだったりします。それが難しい人もいます。しかし共通して言えることは、毎日の生活に喜びを見出すのを学ぶ過程で、神の助けを求めればもっとうまくいくということです。かつてのモルモン教の聖徒たちが西部へ向かっていた時、主が与えられた勧告を思い出してください。「あなたは悲しければ、心が喜びに満ちるように、主なるあなたの神に呼び求めて嘆願しなさい。」(教義と聖約136:29)
教会の指導者で預言者であるトーマス・S・モンソン大管長は「宝探し」という話の中で、三つに分かれた宝の地図を示します。それは私たちをここにおいては言いようのない喜びにいざない、次の世では永遠の幸福に導くものです。それは次の三つです:1.過去から学ぶ。2.将来に備える。3.今を生きる。救い主は過去、現在、未来すべてをごらんになり、私たちが何に焦点を合わせるべきか教えてくださっています:「だから、あすのことを重いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労はその日一日だけで十分である。」(マタイ6:34)メレディス・ウィルソンの「ミュージック・マン」において、ハロルド・ヒル教授は警告を発しています。「あなたは『明日すればいい』をたくさん重ねていくことができるでしょうが、振り返ってみると『昨日』は空白で何もしていなかったことに気づきます。」そして大切なのは「今日」行うことであることを知るのです。
ヘンリーB・アイリング長老が最近次のように話しています。
「『いつか』という言葉が『今日ではなく』を現すとき危険な意味合いを持っています。」
『いつか悔い改めよう』、『いつか彼を許そう』、『いつか教会に行ってみよう』、『いつか謝ろう』、『いつかクリスチャンになろう』、『いつか. . .』。サタンは緊急を要する奉仕の機会をさておき、今一瞬のはかない喜びに人々を走らせます。この世と次の世での喜びと幸福を破壊するためです:「また、次のように言う者も大勢いる。『明日は死ぬ身なのだから、飲み食いし、楽しみなさい。そうすれば、わたしたちは幸せだ。』」(2ニーファイ28:7)天父は幸福の計画を私たちのために立てられました。明日やいつかの幸福ではなりません。今日の幸福です。それは、「人が存在するのは喜びを得えるためである」(2ニーファイ2:25)からです。
モンソン大管長は、死んだばかりの妻を懐かしく語る男性について話しています。
「彼は奥さんの洋服ダンスの引き出しを開けて彼女の買っていたあるものを見つけました、9年前に買ったものです。彼女はそれを身に着けたことはなく、特別な時のためにとっておいたのでした。もちろんもうそんな時は訪れません。その経験に関連して、その男性は言っています。『特別の時のためにと何かをとっておくのはやめてください。あなたの生活の毎日が特別なのです。』」
学校で、職場で、家庭において難しい問題に出会う時、遠くを見て希望を持ち、幸せと喜びを感じることは難しいことではありません。私たちが人生の旅を続けていくとき、「今」という時に喜びを感じることができますように。「今日」という日がどんなに特別な日であるかを、いつも覚えていることができますように。