選択。赤いシャツを着るべきか青いシャツにするか?ここで食事するか、別のところにするか?選択はどこにでもあります。わたしたちは、毎日毎分選択と対峙しているのです。人生とは選択です。実のところわたしたちは、この世に来る前にも選択をしているのです。先週した聖典勉強の中で、「選択」というテーマが何度も頭をよぎりました。祈りを通して受け取る答えが、簡単なイエスやノーではないときにはどうしたらいいのでしょうか?わたしたちが自分で選択をしなければいけない時はどうでしょう?わたしは、天のお父様は答えないことを選んだり、わたしたちを見捨てたりしないということを信じるようになりました。天のお父様は時々、わたしたちが自分で選ぶ機会を与えてくれるのです。この発見をするに至ったきっかけを説明しましょう。
白いタイツと引っ越し
一ヶ月ほど前、小さな娘が学校に行く準備をするために起きました。できるだけ前の晩に、次の日着ていく服を選んでおくようにしていますが、いつもできるわけではありません。この日、わたしたちは服を選んでおきませんでした。それはつまり、朝の20分を使って適切な、そしてお互いが賛成できる服装を選ばなければならないということでした。彼女は可愛くて春らしいワンピースを選びましたが、その下になにも着たくないと言いました。それではわたしが少し落ち着かなかったので、その朝を気まずい雰囲気にしないように、娘に2つの選択を与えました。そのワンピースを白いタイツと一緒に着るか、ワンピース自体を着ないかです。彼女はもちろん「でもママ!」「でもでも!」と反論を試みましたが、わたしはもう一度いいました。「白いタイツを履くか、このワンピースをやめるか、よ。」わたしに向かってぶつぶつと文句を言いながら、彼女は部屋を出ました。彼女が戻ってきた時、なにを選んだと思いますか?びっくりしますよ。彼女は明るい緑色のタイツを履いていたのです!そしてそれはワンピースにとってもよく似合っていました。わたしの提案した選択を無視したことを怒ることもできましたが、その代わりにこの経験は祈りの答えを探していたわたしのひらめきの瞬間となりました。わたしたちが決断する手助けを祈り求めるとき、時々一つの選択がもう一つより良いというわけではなく、どちらを選んでも不正解には成り得ないということがあります。そういう時には、一つを選んでそれで大丈夫だと信仰を持つしかないのです。しかし時には3つ目の選択があることもあります。それはこの緑色のタイツのように、わたしたちが注意深く耳を傾ければ、聖霊がより良い選択を提示してくれることがあるのです。
わたしが大学に行くために住んでいた州から出ようと思ったとき、わたしは天のお父様にそれが正しい決断かどうか尋ねました。彼はイエスかノーで答えてくれたと思いますか?いいえ!だからわたしは彼にこう言ったのです。「分かりました。もしあなたが教えてくれないなら、わたしは引っ越しすることにします。もしそれが悪い選択だったらその時教えてください。」わたしは引っ越しをし、8年がたった今もその街にいて、ここを故郷と呼ぶようになりました。今日まで、この街に越してくるという決断は今までした決断のなかで最良の決断となっています。ほらね、時々わたしたちは、自分たちが学び成長できるように自分たちで選ばなければいけないのです。彼はわたしたちが自分で道を見つけるように望んでいます。彼との関係は5:5の同僚関係なのです。わたしたちの天のお父様は、わたしたちが自分自身に信仰を持つことで彼への信仰を強めるように教えてくれます。
祈り求めることを変える
先週はわたしにとって少し辛い週でした。わたしは風邪を引いたので、子どもたちが決められたとおりにお昼寝をしてくれるように祈りました。そうすればその間、横になって休むことができると思ったからです。それなのになにが起きたと思いますか?もっと悪いことが起こったのです!小さな弟くんはお昼寝を拒否し、2人は枕を投げ合って食料庫に入って行きました。ちょっと!わたしがまさに泣きそうになった時、わたしは間違ったことについて祈ったのだという印象を受けました。わたしは力をもらえるよう祈るべきだったのです。だから、わたしは間違ったことをお願いしていたということになります。
わたしたちは時々、自分自身のことと物事が自分に与える影響に集中しすぎて、無私ではなく自己中心的になってしまうことがあります。わたしは休めるように祈る代わりに、子どもたちの世話をするのに必要な力を与えられるように祈りました。弟くんはやっとお昼寝してくれて、起きた時はご機嫌でした。そして神の慈しみで、わたしはなんとかその日一日を乗り切ることができました。いつもいつも状況を変えることはできません。とても優しく賢いわたしのお母さんは、いつも次のことを思い出させてくれます。
「あなたがものの見方を変えれば、あなたが見ているものは変わります。」(ワイン・ドライヤー)
わたしたちの選び
わたしたちは選択や友人を与えられていて、活かすか殺すかは自分たち次第です。信仰を持ってその状況で得られる最高のものを得ることもできますし、状況に任せて惨めに生きることもできます。わたしは去年の10月の総大会で聞いたこの言葉が大好きです。
「イエス・キリストへの信仰は、わたしたちが信じることを選びその選びを持ち続けることで天から与えられる贈り物です。」(ニール・L・アンダーセン長老「信仰は偶然ではなく、選びによって与えられる」2015年10月総大会)
また「選び」という言葉が出てきました。わたしはこちらの言葉も好きです。
「信仰は偶然ではなく、選びによって与えられるのです。」(同上)
そうです、選びはどこにでもあり、逆境もついてきます。逆境はいつでもあります。逆境の中にあっても信仰を選ぶことは容易ではありませんが、わたしたちの愛ある天のお父様の道は明確です。
教義と聖約122章7節にはこう書いてあります。「これらのことはすべて、あなたに経験を与え、あなたの益となるであろう。」
試練はわたしたちを助け、わたしたちを天のお父様に近づけ、愛を教え、この先に起こることに信仰を持つように教えてくれます。だから今週は、緑色のタイツをはきましょう。子どもたちがあなたをいらいらさせるときは、怒ることもできるし無視することもできますが、天のお父様により大きな愛を願い求めて祈ることもできるのです。
より忍耐強くなると決意したのにも関わらず失敗し始めているような気がするなら、いじけることもできるし諦めることもできますが、強さを祈り求めてさらに努力することもできます。難しいことであることはよくわかっています。やったことがありますから。いえ、今まさに経験しているのですから!でもわたしたちは前に進み続けなければいけません。なぜなら、この美しくクレイジーな人生を選んだのはわたしたちなのですから。あなたのことはよく分かりませんが、わたしはこの人生を世界の何とも交換したくはありません。
この記事は、クリスタル・ウィルカーソンによって書かれ、ldsblogs.comに掲載されたものです。翻訳者はキャンベル愛美です。
とても痛感し、今まさに私に必要なものでした!ありがとうございます。翻訳や投稿してくださって本当にありがとうございます!!
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