わたしがまだ高校生だったころ、いくつかのテストで良い成績をとったことで、すべての教科で特進クラスに入れました。英語や歴史などのいくつかの分野は突出していましたが、一方で理科系科目に関してはほとんど何も知りませんでした。クラスの授業予定は「理科が大好きでたくさんのことを知っている」という前提のもので、基本的なことはほとんど教えてもらえませんでした。最初の授業から上級レベルの内容で始まったため、すぐについていけなくなり、もがき始めました。そのトラウマ的な経験のせいか、わたしは理科を嫌うようになり、できるだけ理科系科目のクラスに行かずに過ごしました。
モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会のニックネーム)にとって、神殿は上級クラスのようなものです。そこで学ばれることは決して新しいものではありませんが、より高度なレベルで教えられるため、より多くを理解できるようになるのです。
神殿で交わされる約束
神殿では神の教えについて深く学ぶだけでなく、聖約を交わすよう求められます。聖約とは神との二方向間で交わす約束です。わたしたちがやるべきことをやれば、神も同様にしてくださるというものです。これらの聖約の中には、家族に仕えること、教会について学んでいる人がウェブサイトや教会の集会で知ることのできる、神の戒めを守ることが含まれます。似たような聖約はバプテスマ(モルモン教に加わる際に受ける洗礼の儀式)の時にも交わされますが、神殿での聖約はそれより重いもので、わたしたちが交わした聖約を破るときには、より大きな責任を伴います。神は神殿で交わす聖約を、さらに高いレベルの責任と従順さが必要とされる深遠な知識と共に保持されており、わたしたちが神の御前に戻るときには、その聖約を守ったかどうかに応じて裁かれます。
これらは、モルモン教の神殿が公に開かれていない理由のうちの2つにあたります。公どころか、ある程度のレベルの知識、証、そして宗教に対する決意をまだ持てていない会員にさえ公開されていません。神はいつも公平なので、わたしたちがまだ責任を負いきれないことに関してわたしたちに責任を負わせることを望んではいません。
教会の会員でいることを通して、より高いレベルでの聖約を交わすことのために少しずつ成長し、より複雑な教えを理解することができるようになります。バプテスマを受ける前に、わたしたちはこの教会の教えを少し学び、初歩的なレベルでも、学んだ教えに従って生活するように求められます。これはスタートラインです。
準備のためのクラス
大人になって教会に入った人や訪問者たちは、新しい会員のために組織された特別な日曜学校に出席します。彼らは他のクラスに出席することもできますが、「福音の原則」と呼ばれるこのクラスは、基本的なことを教え、他の日曜学校のクラスで教えられていることを理解できるように備える助けとなります。これは「福音の教義」と呼ばれるクラスに進むために、準備するクラスです。
バプテスマを受ける前と受けた後に宣教師から教わるレッスンと同様に、福音の原則クラスは新会員が福音の教義クラスを理解できるように助けてくれます。それと同じように、教会のすべてのプログラムは会員が神殿に行き、より多く学び、より高いレベルの聖約を交わす準備を助けてくれるのです。
若いときに教会の会員となった大人は、2年間の伝道活動の前や、結婚の前など教会の指導者が適切だと判断した時期に神殿に入り始めます。大人になってから教会の会員となった人たちは、1年は会員として福音の教えに沿った生活を送る必要があります。そうすることで彼らは学ぶべきことを学び、神の教えに従って生活するという、教会員としての経験を積む十分な時間を与えられるのです。
初めて神殿に入る直前には、神殿準備のためのクラスに参加し始めます。このクラスは、彼らが神殿での新しい経験のために自分自身を備えるのを助け、神殿に入るために必要とされる従順さの基準を満たす助けとなります。これもまた、進歩のための一歩です。
信仰を持って、一歩ずつ
モルモン教の会員はよく、聖典の中の「ここにも少し、そこにも少し」という言葉を引用します。これは私たちが人生を通して徐々に成長し、常に改善し、常に学び、常に成長するという意味です。同じ場所にとどまり続けることはモルモン教の教えではないのです。
「見よ、主なる神はこう言われる。『わたしはここにも少し、そこにも少しと、教えに教え、訓戒に訓戒を加えて、それを人の子らに与えよう。わたしの訓戒を聴き、わたしの勧めに耳を貸す者は、知恵を得るので幸いである。わたしは受け入れる者にさらに多く与え、「もう十分である」と言う者からは、彼らが持っているものさえも取り上げる。』」(第二ニーファイ28章30節)
ここにも少し、というパターンは、わたしたちが強くなる前に道を踏み外すことなく、証を強める助けとなります。またこの約束を受ける前に、約束についてよく理解しているという自信にも繋がるのです。わたしは受ける準備のできていないレベルの理科のクラスを受けたことで、理科に対する自信を失ってしまいました。準備のできていないまま信仰生活に飛び込むことは、神への信仰を失う原因になりかねません。
神殿は、神がわたしたちに望まれる永遠の成長における段階の一つです。そこに着くまでにも準備の段階を踏む必要があります。そして神殿は、神から与えられたすべての戒めと教えを難なく守ることができる段階に進むために、わたしたちを備えてくれます。それはすなわち、神の御前に堂々と立てるようになるということなのです。
この記事はテリー・リン・ビットナーによって書かれ、ldsblogs.comに掲載されたものです。翻訳者はキャンベル愛美です。
神殿の祝福を易しく解説して戴きました。ありがとうございます。
天野兄弟、そう言って頂けてとても嬉しいです。私たちの記事を読んでくださりありがとうございます。