復活の希望

私の主人と私は世界中を旅します。私たちが旅をし、外国に住みながら、数多の善い人々に、また、あらゆる民族、あらゆる地位・職業・階級の、あらゆる宗教の人々に会いました。私たちが旅をしながら、しばしば何千という群衆の中にいながら、その中の何人の人が自分は何者であり、地上での生活が何と短く、死後はどこに行くのかを理解しているだろうかと考えてしまいます。ある人たちはこの世の生活にだけ、それがたとえ一時的なものであろうと、意識を集中させています。一方他の人たちは難問である「この人生はこれだけなのか?」を考え続けています。

モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)では聖典が常に新たな内容を加えられるようにオープンであり、啓示と現代の預言者が与えられていることにより、この地上の他のどの宗教や哲学よりも私たちに対する神の計画について多くの知識が与えられています。高価な真珠のモーセ1:39は次のように述べています。「人の不死不滅と永遠の命をもたらすこと、これがわたしの業であり、わたしの栄光である。」不死不滅とは永遠に生きることであり、永遠の命とは神といつもいられる状態で永遠に生きることです。

あなたは永遠の存在です

mormon-temple-draper-celestialあなたは常に存在してきました。あなたは宇宙の中で、父なる神に霊の体を造っていただく前に、個別の英知として存在していました。霊の存在になってから、神とともに、その子供として昔の預言者モルモンが前世と呼んでいる霊の世界に住んでいました。いつも自由に選ぶことができました。モルモンはそのことを「選択の自由」と呼んでいます。このことが明らかなのは、前世でルシファー(サタン)という霊が神に逆らって、あなたから選択の自由を奪ってしまう強制の計画を提案したことから結論づけられます。神はあなたの選択の自由を守るためにあらゆることをなさいます。神はすべての人類を救うという栄光を望んでいらっしゃいます。サタンは臆病者で、彼に従った者も同様でした。イエス・キリストは、無数の世界を造っておられましたが、私たちのためにあらゆることを苦しまれ、神を選ぶ権利と機会を保証しようとなさいました。サタンと彼に従う者たちは追い出され、この世ではあらゆる悪を行う源になりました。私たちが経験する反対勢力には目的があって、預言者リーハイはそのことをモルモン書の中で説明しています。

「そのようにして、主なる神は思いのままに行動することを人に許された。しかし人は、一方に誘われるか他方に誘われるかでなければ、思いのままに行動することはできなかった。(中略)そのため、人は肉においては自由であり、人のために必要なものはすべて与えられる。そして人は、すべての人の偉大な仲保者を通じて自由と永遠の命を選ぶことも、あるいは悪魔の束縛と力に応じて束縛と死を選ぶことも自由である。悪魔は、すべての人が自分のように惨めになることを求めているからである。」(2ニーファイ2:16、27

神の目的は最初から私たちの進歩を助けて、私たちが神のようになり、神の享受しておられる永遠の生命を与ることを助けることでした。そのための次のステップは肉体を得て、死すべきこの世の生活を経験することです。この地上での経験は天の父のもとに帰る準備として、同情する気持を育て、永遠になり得る人間関係を築き、主イエス・キリストに信仰を持つことです。私たちは自分が人格のすぐれ思いやりのある人になっているということを証明するような選択をします。地上での旅路でキリストの名前を一度も聞いたことのない人でも、もし親切で自分の得た知識の範囲で責任のある人たちはかなりの進歩をすることができます。

死ぬとき、霊と肉体が別々になり、霊は「霊界」と呼ばれる所に行ってそこで知識において成長し続けます。そこではその前に亡くなった愛する人々といっしょになり、悔い改めたり救い主に対する信仰を見いだすこともできます。

それから復活が来て、天の王国を引き継ぎます。不信仰の人も天の王国の1つに救われるかもしれません。天の王国の段階は、「永遠の命」または「日の栄えの王国」が最高で、そこでは神の満ち満ちた栄光があります。

復活

キリストの贖いの結果の1つはすべての生けるものに復活が保証されているということです。これは無条件の賜物で、善人にも悪人にも分け隔てなく与えられます。復活すると、体は自分の最盛期の完全な体で、「朽ちることのない」もので、病気や怪我や死の影響を受けません。あなたの感覚や精神は鮮明なものになります。すべての傷や傷跡は、あなたの選びで消えてしまいます。髪の毛1つ失われることはありません。それは死ぬときの状況や死んだ後の状況によりません。あなたの復活体は骨肉の体であって、血がありません。それは血が朽ちるものだからです。もっと純粋な物が血管を流れるようになります。

復活体の主が弟子たちに現れたとき、主は骨肉の体をもっていることを理解できるように助けました。主は言われました。「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ。」(ルカ24:39)復活後に主はニーファイ人にも現れました。(3ニーファイ11:10−17参照)

 復活について理解して、証を得ることは私たちに希望をもたらし、人生のチャレンジ、試練、勝利を経験する時にふさわしい見方ができるようにさせてくれます。私たちは救い主が生きておられ、主の贖いによって、「キリストは死の縄目を断ち、墓は勝利を得ず、死のとげは栄光の望みの中にのみ込まれてしまう」(アルマ22:14)という確信に慰めを見いだすことができます。

ダリン・H・オークス長老は主イエス・キリストの使徒ですが、モルモンの総大会のお話で2000年4月に復活について描写しています。

亡くなった人が出てきて復活体で再び生きることができるという可能性は、希望を呼び起こしたと同時に、歴史記録をたどってみるとその大部分の時代に論争を巻き起こしてきました。モルモン教の会員は、はっきりした聖典の教えに基づいて、キリストが死の縄目を断ったのであり、死は勝利にのまれてしまったのだという確信を支持しています。(つまり、イエスによって永遠に死ぬという事がなくなったということ)私たちは聖書とモルモン書の文字どおりのイエス・キリストの復活の記述を信じていますので、私たちは容易に同様の復活がこの地上にかつて生きていたすべての死すべき存在にも起こるという多くの聖典の中にある教えを受け入れています。(1コリント15:222ニーファイ9:22ヒラマン14:17モルモン9:13教義と聖約29:26教義と聖約76:39、42−44を参照)イエスが教えられたように、「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。」(ヨハネ14:19) 

私たちの永遠の旅路で、復活という出来事は傑出した出来事であり、この世の生活の終わりを示し、不死不滅の生活の始まりを画する出来事です。主はこの決定的な転換の瞬間の大切さを表現して、次のように宣言しています。「このようにして、主なる神であるわたしは、人に試しの生涯を定めた。人が、すなわち信じるすべての者が、肉体の死によって不死不滅によみがえり、永遠の命を受けられるようにするためである。」(教義と聖約29:43)同様にモルモン書は次のように教えています。「死がすべての人に及ぶようになったので、大いなる創造主の憐れみに満ちた計画を成就するためには、復活の力が必ずなければならない。」(2ニーファイ9:6)私たちはまた、現代の啓示により、復活の時に起こる霊と肉体との結合がなければ、「満ち満ちる喜び」(教義と聖約93:33−34)を得ることはできないのです。

 「贖いの計画」の中における復活が占める重要な役割を理解するとき、その計画は私たちの永遠の旅路を司るものですが、私たちは使徒パウロが次のように教えた理由を理解することができます。「もし死人の復活がないならば、(中略)私たちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。」(1コリント15:13−14)私たちはまた、なぜ使徒のペテロが、父なる神がそのあふれるほどの憐れみをもって、「イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生まれさせて生ける望みをいだかせ」(1ペテロ1:3;また1テサロニケ4:13−18)てくださったことに私たちの注意を向けさせたか理由が分かります。

復活に対する確信によって、私たちは力づけられ、私たち一人一人が直面し、私たちが愛している人たちが直面する死すべき肉体にかかわるチャレンジ、すなわち生まれたときからもっている、あるいは生きている間に生じた肉体的、精神的、感情的な欠陥などの生涯に直面してもそれを耐えて行くだけの見方を得ることができるのです。復活のゆえに、私たちはこの世にある欠陥は一時的だけのものであることが分かるのです!

この記事はGaleによって書かれました。ゲイルはモアー・グッド・ファウンデイションの編集役員です。彼女は末日聖徒イエス・キリスト教会の改宗者です。