学校から帰って友達と遊ぶために家を出てから、家のお手伝いをするのを忘れていたと思い出したという経験がありますか。私にはそういうことが何度かあります。意図的であったときとそうでなかった時があります。そして後になって戻って来て、その晩になったら誰かが自分の代わりにやってしまっています。言い訳の余地がなく、そのまま休みますが、次の朝、直面しなければならない運命が待っています。よく、起きて下に行くと父がいます。怒っていないのです。でも、がっかりしているのです。彼は私に、自分が他のことすべてのことをしているのに、なぜ皿洗いだけでもできないのかと尋ねます。そこで、私がしなければならないのは、皿洗いを少しだけ手伝うことです。私が心から愛している父をがっかりさせてしまったことで当惑している自分の姿を思い出すことができます。もし、私たちがよく準備していない時に、天の父と再会する時にはこのことが起こると思います。

 

天の父

天の父は地球を創造され、私たちに肉体を与え、私たちを贖う計画を備えられました!私たち一人一人のために、計画し、愛情を注いだ神の業を考えてみて下さい。そして、私たちは地上にやってきました。そうして、ほんのわずかなことだけでも、神が私たちに望まれることができないのでしょうか?聖典を読むこととか、ホームティーチングをすることとか、教会に行くこととか、自分としての最善の状態になるとかいうことです。この地上でするそのような小さなことは、天の父の役割と比べたら、ほんのわずかな努力です。それでも、神が、私たちがその持てるすべてを受けるために望まれることは、ただ戒めを守ることなのです。

この概念はモルモン書9章と関連しています。

「まことに、あなたがたが神の子羊の前に立たされる大いなる日に、(中略)あなたがたは、自分の罪の意識のあるままで、神の子羊とともに住めると思うか。あなたがたは、神の子羊の律法を踏みにじったという罪の意識に苦しんでいながら、あの聖なる御方とともに幸せに暮らせると思うのか。」

これらの聖句はすばらしく示唆に満ちています。そして私たちが神との関係を認識する助けになります。自分が神の望んでおられるように最善を尽くしていないと知っていることから来る罪悪感を持ち続けて、神と永遠に住むわけにはいきません。神は私たちのためにすべてのことを準備して下さいました。神は私たちに救いの計画について告げる必要さえありません。知識なしでも、完全な信仰をもって戒めに従うこともできたはずです。しかし、神は憐れみ深くあられ、この福音の知識とその他多くの偉大なことを授けて下さり、私たちが主に従い、その戒めに従えるように助けて下さいました。最後の裁きに関しては、神によって私たちは成功するように準備されています。ですから、残されたことは、私たちがこの機会を利用して、主に最善の努力をして従うことだけです。