2メートル10センチという信じられない高身長のクレシミア・コシックは、バスケットボールの申し子でした。ユーゴスラビア(現在のクロアチア)のザダールで、1948年11月26日に生まれたコシックは、16歳の時にナショナル・チームの選手となり、彼の選手生命において世界大会で2度優勝、ヨーロッパ大会では3度の優勝をおさめました。彼はまた4度世界の舞台、オリンピックに出場し、3度メダルを獲得しています。

 

更なるものを夢見て

1968年にオリンピックに初出場し、ユーゴスラビアの銀メダル獲得を確かなものとした後、BYU(ブリガム・ヤング大学)のバスケットボールコーチであったスタン・ワッツの助けを得て、コシックは同大学に進学しました。彼がギザギザとした美しいワサッチ山で縁取られたBYUのキャンパスに初めてついたとき、コシックは不思議なデジャヴを経験しました。コシックは、まさに目の前に広がるこの山々を数年前に夢でみたことがあり、自分は来るべくしてプロボ(BYUがある街)に来たと感じました。その後、コシックの友人が、夢はとても深い霊的な意味をもつことがあると話したとき、コシックはその意味をもっと知りたいと思いました。

オリンピックでメダルをとったモルモン教のコシック

その願いはコシックをヒュー・ニブリー教授のオフィスへと向かわせました。年齢や国籍、そして40センチもの身長差(ニブリーは168cmでした)に隔てられながらも、ふたりはすぐに福音の勉強に対する望みと信仰に強い兄弟愛を見つけました。

「教会に加入するべきではない理由は何百もあります。」と、コシックはニブリーに言いました。「でも加入するべき理由はひとつです。これが真実だから、というだけです。」

クレシミア・コシックは、ニブリーによって1971年にバプテスマを受けました。彼の身長のために、コシックは特別に縫われた、長いバプテスマ着を着ました。そして彼の身長と有名さ、そして当時のまれな政治情勢のために、彼はテンプルスクエアのタバナクルの地下でバプテスマを受けました。

改宗のあとも、コシックはドイツのミュンヘンで開かれた1972年のオリンピックと1976年のモントリオールに出場し、チームがまたも銀メダルを祖国に持ち帰るのに貢献しました。1980年にモスクワで開かれた、彼の最後となるオリンピックでは、彼のチームは念願の金メダルを獲得しました。

 

ユーゴスラビアでも信仰深く

彗星のような彼のキャリアによってもたらされた栄光と名誉にも関わらず、コシックはBYUで学んだ信念に信仰深くあり続けました。神権者がユーゴスラビアで説教するのが許されなかった時、23歳のコシックは神権会長として彼の国に福音の基盤を築くのを助けました。

教会からの指示により、彼はユーゴスラビアに3つの支部を築き、またユーゴスラビア初のバプテスマを施しました。またコシックは、トーマス・S・モンソンが1985年にクロアチアに伝道部を築いたときに通訳をし、モルモン書、教義と聖約、高価な真珠、そして神殿のエンダウメントをクロアチア語に翻訳するのを助けました。

コシックの葬儀で、有名なカトリックの牧師であるフラ・ボナベンチャー。デューバはこのような賛辞を述べました。「わたしが知る限り常に、わたしたちのクレッソ(クレシミアの愛称と思われる)は信仰深い信者でありながら、ほとんどそれについては語らずにその信仰を行いにしてきました。彼はこの宗教を信じていただけでなく、個人的な神とのつながりを心から信じていたのです。彼は心の底から、彼の信仰に沿って生きようと努めていました。」

この記事はダニエル・B・ワグナーによって書かれ、ldsliving.comに掲載されたものです。