二人の足

若い無神論者と熱心なモルモン教との討論シリーズの第2弾。

W・キャシティ-ギリオムとドンナ・キャロル・ヴォスによる討論

この討論は「モルモン教と無神論者」と言い換えてもそれほど違いがありません。それが,わたしたちが霊性に関して1ヶ月の議論をしてきたアプローチを正確にあらわしています。

ドンナ・キャロル・ヴォスはバークレーの卒業生で,今は専業主婦です。かつては信仰を持っていませんでしたが、今は熱心なモルモンになりました。一方,W・キャシティ-ギリオムは別々の宗教を持った両親に育てられましたが,やがて宗教とはかかわらず神の存在を気にかけなくなり,教育とともに無神論や懐疑主義に傾いてきました。

今回は,二人が信仰の性質はどういうものかという疑問を議論します。

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W・キャシティ-ギリオム:

「信仰を持つ者にとって,何の説明も必要ではない。」トーマス・アキナス

「ただ信仰を持たなければならない」という表現を何度も聞いてきましたが,しばしばそれは何故宗教的な人が特定の教義を信じるかについての議論の終わりになります。それは明らかに宗教を信じる上で基本となることです。

「信仰」というのは他の言葉と同じように,声帯で生み出された振動が空気を伝わって相手の鼓膜に到達するもので,その書き言葉も同じ意味を持っています。その意図された意味はそれを話すないし書く人によって決められます。不運にも発信者の精神の中の情報に直接接近できませんから,意図された意味を完全な確信を持って知ることが出来ず,しかしその言われた言葉の意味を分析して意味を演繹することはかなり正確にできます。

「ただ信仰を持たなければならない。」負けた討論の最後の返答として。証拠と合理化が尽きて,信仰という言葉を引き出してきます。このような用法では,信仰とは、何かが本当であることを信ずる理性そのものを意図しているように見えます。

「もっと信仰深くありなさい。」これは疑問を持っている信者に対して与えられるアドバイスです。この用法ではある種の徳をもつことを示しています。しかし,それはまた磁石の役割を果たし,疑いを持った信者を理性の代わりに信じていることが真実なのだとその宗教的な教義に引き戻そうという働きをします。

「信仰とは,望んでいる事がらを確信し,まだ見ていない事実を確認することである。」この使い方においては,本当だと信じたいことについての確実性を意味しています。信条の中の確かさは実証的に真理ではありません。

似たような意味の広がりを考え,わたしは全部に共通の信仰の表現を次のようにまとめます。つまり,選択的にだまされ易くなる傾向です。だまされ易い傾向というのは,合理的であるよりもはるかに低い標準を設定して,愚かにもそれを真実として受け入れてしまうからで,選択的というのは,それをある限られた主張にだけ行なうからです。その傾向は他に似たような主張がたくさんあるにもかかわらずそうするからです。

ドンナ・キャロル・ヴォス:

「選択的にだまされ易くなる傾向」他の表現と同じようにうまく言っています。だまされ易い傾向とは,あまりにも信頼するために人は容易に罠にかかってしまいます。信仰とは,よく言っても,希望とか推測とかで,霊的なレベルで真実なことは実際に真実であると考えることです。ここで注意を引くポイントは,わたしたちの誰もがこの生涯で知ることがないことです。すべてのことは推測なのです。神が存在するのか。神はどのような御方か。来世は存在するのか。天国や地獄はあるのか。

信仰の実体は疑問と密接につながっています。すべての知的で正直な信者は時々疑うことを認めます。時には心を苦しめる疑問にぶつかります。(横道になりますが,純粋に興味半分のコメントですが,知的で正直な無心論者は疑問の余地を認めません。定義によって,無心論者は神が居ないと主張するからです。そうでなければ,彼らは不可知論者になってしまうからです。)

歴史上の最も偉大な信者の一人であるマザー・テレサ,まさに聖者ですが,ひどい疑問に悩まされました。彼女の日記からの引用:

「わたしの信仰はどこでしょうか。心の奥底にでさえ,そこにさえ,空虚と暗闇しかありませんでした。おお神よ。この知らざる苦しみは何と苦しいのでしょうか。とどまることのない苦しみ。わたしには信仰がありません。わたしは心に雲をかける言葉や考えをあえて口にしようとは思いません。そうして知らざる苦悶を経験したくはありません。あまりにも沢山の答えることの出来ない疑問がわたしの中にあります。わたしはそれを見つけることも恐れます。祭司の偽善売教があるからです。もし神がおられるのであれば,わたしをお赦しください。」

疑いは単純なことではありません。マザー・テレサは自分の疑問を疑いました。「もし神がおられるのであれば,わたしをお赦しください。」

信仰はものすごく非常に騙され易すい状態に直面して初めて信仰が可能です。非常に大きな信頼を,危険を承知で受け入れ,自分を裸でさらすことになるのです。そして,この傷つき易さ,赤裸々であることの中で初めて、最も偉大な信仰は見出されるのです。この意味で,わたしはトーマス・アキナスに同意しなければなりません。「信仰を持った人にとって,説明は全然必要ない。」

わたしとしては,だれかに「もっと信仰深くありなさい」というのは弱いと思います。末日聖徒イエス・キリスト教会ウークトドルフ管長はある時,「信仰を疑う前に,疑問を疑いなさい」と言いました。それがわたしには理にかなっていると思います。すべての信者はその2つを違った割合で持っていて,その比率は常に変わっています。あらゆる努力をして,疑問を認識しても,信仰にもっと重きを置くことが必要です。

わたしはしばしば自問します。「わたしが疑いを持ち,自分の疑いによって自分が神から遠ざかってしまうとしたら,だれが一番利益を得るだろうか?」信者にとっては唯一の答えがあります。無神論者にとっては最も馬鹿げた信条でしょうが,悪魔,あるいはしばしば敵対者として知られている存在です。

わたしはかつて信者を軽蔑していました。とりわけ悪魔を信じているような迷信を持っている人たちを。一人のカトリックの友だちは,わたしをじっと見て言ったのです。「悪魔がこの世で行なう最も巧妙なトリックは自分が存在しないと思わせることです。だれも存在しないものに対して防衛しないでしょうから。」わたしはそのことについて長い間考えていました。そして,今は論理的に分かるのですが,わたしと天の父の間にくさびを打ち込むという,まさにその目的のためにわたしの中に疑問を燃え立たせようとする力の存在を信じています。

すべての信者は霊的な旅路のある特殊なステップに居ます。そしてその旅路は直線ではありません。信者を不信者と分けるものは「信じたい」という望みです。つまり「疑いと喜んで戦いたい」と思う気持です。

自暴自棄になった父親が病気の息子をイエスのもとに連れてきた時,キリストはその父親の信仰によってのみ,その息子が癒されると応えられました。その父親は信仰に対する願望に疑いというそれに拮抗する気持が入り交じった思いで叫びます。「信じます。不信仰なわたしを,お助けください。」(マルコ9:24)

W・キャシティ-ギリオム:

話が横道にそれ,純粋に興味半分のコメントですが,知的で正直な無心論者は疑問の余地を認めません。定義によって,無心論者は神が居ないと主張するからです。そうでなければ,彼らは不可知論者になってしまうからです。

Au contraireという言葉は,ギリシャ語の不信者を表す言葉です。A-がギリシャ語の「ない」という意味の接頭辞で,theistは神ないしは神々を信じる人の意味です。Agnosticという言葉は,ギリシャ語の「知識がない」という意味です。初期のキリスト教徒のカルトにも同じ名前で呼ばれている人たちが居ました。知識は信条の部分集合で,少なくとも非常に高いレベルの確からしさを示しています。

信者と不信者という言葉の間にははっきりとして二分極があり,両者の間に共通する部分はありません。知識と不可知という言葉も同じで,しばしば神学では知識は神の存在について示しています。ですから,人は4つの区分に分けられます:不可知の不信者,知識のある不信者,不可知の信者,知識のある信者。

信仰はものすごく騙され易い状態に直面して初めて信仰が可能です。(中略)信者を不信者と分けるものは信じたいという望みです。

わたしたちは信仰の定義については一致していますが,それを評価する時に意見が分かれます。わたしは騙され易さは欠点であると思います。あなたも同じだと思いますが,例外は自分が育ってきた時に取り巻かれていた宗教に関して。自分が強い信仰を持った人に取り巻かれていなかったので,わたしは信仰に対して距離をおいています。しかし,そのことによってわたしははっきりとした観点を持っています。それは正直さが腐って空想となる時,得られるものです。

その状態に近くなるのは,「信仰は,最もよく言って希望です」という時です。わたしがその点に付け加えたいのは,信仰は自己欺瞞で,自分が真実であってほしいと思うものを見て,それがあたかも真理であるかのような振りをすることです。それは人を信じさせるものです。第1コリント人への手紙を引用すると,「わたしたちが幼な子であった時には,幼な子らしく語り,幼な子らしく感じ,また,幼な子らしく考えていた。しかし,おとなとなった今は,幼な子らしいことを捨ててしまった。」

 

ドンナ・キャロル・ヴォス:

わたしは「正直さが腐って空想になる」とあなたが言ったことを聞いて笑ってしまいました。わたしはそれに異論はありませんし,それに反駁する意図もありません。わたしはただ,そのユニークな発想とそう表現したことを楽しんでいます。お見事です。

あなたが学問的に破壊することと,無神論と不可知論についての説明は感動的です。不可知論についてはちょっと脇におきますが,あなたの説明のように,無神論は神ないしは神々についての信条がない人です。わたしは十代の時,わたしの母の寝室に居て,それに近いことを言ったに違いありません。彼女が言ったのは,「信じないことでさえ,一つの信じ方です。」

わたしは長年その答えについて考えてきて,それが信じることが必ずしも神や神々について信じることではないにしろ,信じること無しには人は生きられないのだと解釈しました。もし神が宇宙を創造されたと信じなければ,他のものがそうしたと信じるわけです。もし神がわたしたちを導いていると信じていなければ,直感が導いていると信じるかもしれません。人間はある種の信仰を持たなければ生きていかれないのでしょう。

あなたの書いたものを読んで気づいたことは,自分が生きた経験が自分の信条に対して挑戦することがない限りにおいて,間違ってはいないということです。もし御霊(表現することは不可能であれ,それを誤って解釈することも不可能ですが)を一度も感じたことがないのであれば,わたしが言うことはすべて正直さが腐って空想になるように見えると思います。

わたしは信者と不信者は触知できることについて議論できると思いますが,一方が霊的な経験があり,もう一人がない場合,それ以上の議論に関してはあらゆる点で意見が食い違ってしまうでしょう。

それは子供を育てることに少し似ています。この世で親にならない限り,親になるとはどういうことかを記述することは出来ません。次の名言は親たちに何百回となく言っているのですが,そのつどに半ば心から,半ば悲しそうな笑いを誘います。「子供を持つまで本当の幸せが分かりません。そしてそれを悟るのが遅過ぎます。」

実は,わたしは強い信仰を持った人たちに囲まれて育ったわけではありませんでした。わたしは幼いころプロテスタントの宗教を非難したくはありませんが,それは堅い会衆席と無味乾燥の聖書の説明だったとだけ言っておきます。わたしの方がもっとはっきりした観点で見ていると思います。というのは,わたしはかつてあなた立っている所に立ち,あなたの信じていることを信じていたからです。それから新しい示現の生活に入り,そこでは神が存在していて初めて可能であるような世界に自分をさらさせるような数々の経験をしてきたのです。

知的に正直であるという観点から,そして,わたしが実生活から得た経験の知恵によって分かることは,わたしはわたしたち双方が今信じていることは,経験を積むにつれて変わっていくということです。10年後に,あなたが信者で,わたしの方が無神論者になっているかもしれません。知識と異なって,信じることはいつでも変わるからです。

W・キャシティ-ギリオム:

信仰とは選択的な騙され易さで,ウイルスで,それの一滴一滴が理性と正直さを自己欺瞞という快い毒によって汚染するものです。

ドンナ・キャロル・ヴォス:

信仰は何かわたしたちの五感を越えて存在することに対してわたしたちの命をかけることです。そして五感を越えて経験することは現実的なものです。