わたしは、苦しい時、辛い時、神が唯一の平安を得るよりどころだと知っていました。そして、当時わたしは平安をものすごく必要としていたのです。数年間の間、自分が愛している人々を失うという記憶が自分をひどく悩ました時には、祈りで神に心を向けました。しばらくして、苦しみが和らぎ始め、それから、やっと自分の肩に一人で重荷を背負うことによって自分を罰することをやめようと決意したとき、イエス・キリストにその重荷を預けました。

末日聖徒イエス・キリスト教会は、その基本的な教義にはイエス・キリストが神の御子であり、贖いと呼ばれる行為によって、御自分に人類の苦しみ、悲しみ、病、罪を背負われたことが明言されています。主はわたしたちの悲しみを本当にご存知なので、もしわたしたちが主を受け入れるならば、慰めを授けてくださることがお出来になります。

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11:28)

祈りとは何か?

あなたの必要とするあらゆる助けを神に叫び求めなさい。まことに、あなたの行うことはすべて、主のために行うようにしなさい。どこへ行くにも主にあって行くようにしなさい。まことに、あなたの思いを常に主に向けるようにしなさい。まことに、あなたの心の愛情をとこしえに主に向けるようにしなさい。あなたのすべての行いについて主と相談しなさい。そうすれば、主はあなたのためになる指示を与えてくださる。(アルマ37:36−37)

それはどうすれば可能になるでしょうか。主は本当にためになる指示を与えてくださるのでしょうか。祈りとは、本当に何なのでしょうか。

祈りは神との意思疎通です。祈りの効果について力強い説明が末日聖徒イエス・キリスト教会の聖書辞典にあります。

神との本当の関係(すなわち、神が私たちの父で、私たちがその子供である)を学ぶや否や、祈りは自然なものとなり、私たちの側では本能的に出来ます(マタイ7:7−11)。祈りについてのいわゆる難しさはこの関係を忘れることから来ます。祈りとは、神の意志とその子供の意志とが互いに応答する行為です。祈りの目的は、神の意志を変えようとするのではなく、自分自身のためや他の人たちのために神様が既に用意してくださっている祝福を、その条件となっている、尋ね求めるという行為を起こすことによって、確かなものとすることです(聖書辞典―祈り)。

イエス・キリストが復活後にアメリカ大陸の民を訪れられた時、エルサレムの民に教えられたのと同じ原則を祈りについて教えられました。これらの教えがモルモン書の中に書かれています。

だから、あなたがたはこう祈りなさい。「天におられるわたしたちの父よ、御名があがめられますように。御心が天で行われるように、地でも行われますように。わたしたちが自分に負債のある者を赦していますように、わたしたちの負債をお赦しください。わたしたちを誘惑に陥らせることのないようにし、悪からお救いください。王国と力と栄光はとこしえにあなたのものです。アーメン。」(3ニーファイ13:9−13)

主は約束なさっています。「あなたは祈るとき、自分の部屋に入り、戸を閉じて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。すると、ひそかに見ておられるあなたの父は、公に報いてくださるであろう。(中略)あなたがたの天の父は、これらのものがすべてあなたがたに必要であることをご存知だからである。」(3ニーファイ13:6、32)

わたしはどのように祈るか?

祈りは、神である永遠の父に対してですから、祈りに臨む時に尊敬の念を持ってするべきです。一般に、ひざまずいて祈りますが、もしひざまずくことが特定の状況でふさわしくなくてできないときでも、祈りは声を出しても、心の中でも、いつでも捧げることが出来ます。

イエスは意味のない繰り返し、あるいは同じことを何度も祈ることについて警告をなさいました。しかし、それぞれの祈りは同じ形式に従うことが出来ます。

祈りは神がわたしたちの御父であることを認めることで始まります。「愛する天のお父様」などと呼びかけます。

次に、祝福に感謝し、わたしたちが神様に依存していることを認めて、「何々について感謝しています。」のように述べます。

感謝が終わってから、必要としている助けや、罪の赦しや、祝福などを願い求め、「何々について助けをお願いします。」のように続けます。

祈りはイエス・キリストの御名によって終わります。人類に対する主の贖いのゆえに、主は私たちと神との間の仲保者になられました。ですから、終わり方は、「イエス・キリストの御名によって、アーメン。」となります。

祈りの答えはすぐには来ないかもしれませんが、穏やかで、平安な聖霊から来る気持ちが慰めと確信を感じさせ、祈りが聞かれたという印象や、特定の行動を起こすべきという印象が起こります。聖霊の促しに信頼することにより忍耐強く主に仕えることが出来ます。

いつ祈るのか?

主イエス・キリストの使徒であるジェームズ・E・ファウスト長老は、「祈りという命綱」というお話の中で語っています。

自分の生活の、小さなことでも大きな関心事でも、私たちには日々祈る特権があります。私たちが直接神様に叫んで乞い願わないまでも、私たちは心を、祈りの中で、絶え間なく心を開いて神様に向けるべきです。

この世のどのような権威者も私たちの創造主に直接語りかけることを妨げることが出来ません。私たちが祈る時には、決して機械の故障とか、停電のようなことが起こって、妨げられることはありません。毎日、何回まで祈れるとかどのくらい長くまで祈れるとかということに関する制限は全くありません。私たちは秘書を通して約束を作って恵みの王位に気持ちを届けるという必要はありません。神様はいつでもどこでも耳を傾けてくださいます。

日々祈ること、朝にも、夜にも、食事のためにも、祈ることが平安と、信仰と、生きる希望をもたらしてくれます。

祈りの力

聖書もモルモン書も、古代の預言者によって記録された聖典ですが、人々の生活における祈りの力について証しています。

旧約聖書には、石女であったハンナは、神殿で息子が授かるように神に懇願しました。

ハンナは心に深く悲しみ、主に祈って、はげしく泣いた。そして誓いを立てて言った、「万軍の主よ、まことに、はしための悩みをかえりみ、わたしを覚え、はしためを忘れずに、はしために男の子を賜りますなら、わたしはその子を一生のあいだ主にささげ、かみそりをその頭にあてません。」(中略)そこでエリ[神殿の祭司]は答えた、「安心して行きなさい。どうかイスラエルの神があなたの求める願いを聞き届けられるように。」(サムエル上1:10、11、17)

神は彼女の祈りを聞かれ、彼女は息子、サミュエルを授かりますが、彼は主の偉大な預言者になります。ハンナはその後ほかの子供たちを授かりました。

ダニエルは一貫して神に祈ったので、ダニエルに嫉妬心を感じていた人たちの一部が彼に対して陰謀を企み、彼はライオンの穴に投げ入れられてしまいました。

こうして王は朝まだき起きて、ししの穴へ急いで行ったが、ダニエルのいる穴に近づいたとき、「生ける神のしもべダニエルよ、あなたが常に仕えている神はあなたを救って、ししの害を免れさせることができたか。」ダニエルは王に言った、「王よ、どうか、とこしえに生きながらえられますように、わたしの神はその使いをおくって、ししの口を閉ざされたので、ししはわたしを害しませんでした。これはわたしに罪のないことが、神の前に認められたからです。王よ、わたしはあなたの前にも、何も悪い事をしなかったのです。」(ダニエル6:19−22)

モルモン書の劇的な改宗談の中で、アルマは息子のヒラマンに、自分の神に対する悔い改めの祈りによって、恐れと罪悪感とが喜びと驚くべき光に変わった事について話しました。

まことに、わたしは自分のあらゆる罪と不義を思い出し、そのために地獄の苦しみを味わった。わたしは自分が神に逆らってきたことと、神の聖なる戒めを守っていなかったことを知ったのである。(中略)わたしの罪悪が非常に大きかったので、神の御前に行くことを考えるだけで、わたしは言いようのない恐怖に責めさいなまれた。おお、そのときにわたしが思ったのは、自分が追放されて霊と肉体がともになくなってしまえば、神の御前に立たされて自分の行いを裁かれることはないだろうということであった。さて、三日三晩、わたしはまさに罰の定めを受けた者の苦痛に責めさいなまれた。そして(中略)かつて父がイエス・キリストという御方の来臨について民に預言するのを聞いたことを思い出した。イエス・キリストは神の御子であり、世の罪を贖うために来られるというのである。

心にこの思いがはっきりと浮かんできたとき、わたしは心の中で、「おお、神の御子イエスよ、苦汁の中におり、永遠の死の鎖にしばられているわたしを憐れんでください」と叫んだ。さて見よ、このことを思ったとき、わたしはもはや苦痛を忘れることができた。まことに、わたしは二度と罪を思い出して苦しむことがなくなった。おお、何という喜びであったことか。何という驚くべき光をわたしは見たことか。まことに、わたしは前に感じた苦痛に勝るほどの喜びに満たされたのである。(アルマ36:13−20)

それぞれの祈りは、必要と結果において非常に違っていますが、神の時に従って、神の力を通じて答えられました

私自身の平安と赦しを求める祈りは、最近になって答えられましたが、それは私が自分の行為に対して責任を取り、友だちの責任を責めないようにした後に与えられました。関係が疎遠になってしまったことに失望したものの、その経験を思い出して苦しめられることがなくなりました。聖霊が、私がその段階で最善を尽くしたことを認識できるように助けてくれました。それが、神が私に期待なさったことでした。私は、救い主のイエス・キリストが私の見方を絶望から希望へと変えてくださった時に、平安を感じ、主は私に、最終的に、またかつ完全に、再び私が自分の信仰を言葉に表し、主を讃えるように機会と方法を与えてくださいました!

もし神を知ることを、魂に平安を、人生の疑問に答えを、あるいは罪の赦しを探し求めているのでしたら、祈りのステップに従い、真心から神である永遠の父に心の願いを告げるようにお勧めします。私は、神が生きておられることと神が私たちの祈りに憐れみ深く答えてくださることを知っています!

この記事はdelisaによって書かれましたが、彼女は幸福を見つけるに2つの投稿をしています。彼女は末日聖徒イエス・キリスト教会の会員で、66回引っ越しをしましたが、この美しい地球にまだ飽きていません!彼女は人々、言語、歴史や文化人類学、世界の宗教文化が好きです。彼女の生涯にわたる熱情は宗教的な象徴、とりわけ古代と現代における神でとの関連について研究することです。彼女のご主人のアンソニーと彼女はブルドックのウエリングトンと、冒険、旅行、映画、オートバイ、友だちや家族と過ごす時間が好きです。