2016年1月22日金曜日に、ジョン・トラボルタが司会を務める第13回年次「Living Legends of Aviation Awards」が行われ、ハリソン・フォードがAviation Legacy Awardを贈りました。

近頃ミート・ザ・モルモン(モルモンをご存知ですか)で特集された、「キャンディー・ボンバー(爆弾)」をパラシュートで落下させたことで有名になったゲイル・ハルヴォーセン大佐が、その晩表彰されました。

このようなステージに、ディーター・F・ウークトドルフ管長は豪華な顔ぶれとともに立ち、子供たちに良い影響を生涯にわたって与えたハルヴォーセンにKitty Hawk Children’s Award を贈る名誉が与えられました。

その晩の終わりに、ウークトドルフ管長とハルヴォーセン大佐が、ハリソン・フォードと写真を撮る機会があった際に、ウークトドルフ管長は冗談めいて「95歳のキャンディー・ボンバーは、ミレニアム・ファルコン・パイロット(ハリソン・フォード)と元航空キャプテンのわたしよりも一番年下に見えますね」と言いました。

「キャンディー・ボンバー」がどうやって始まったか

第二次世界大戦のすぐ後に、当時米国の少佐でありパイロットであったハルヴォーセンは、戦争の復興努力の一部として、西ドイツに小麦粉を届ける役割が与えられていました。彼は回想して、「わたしはベルリンのフェンスの所で、飛行機が頭上を飛び着陸する様子を撮影していました。有刺鉄線の向こう側には、30人くらいの子供たちがいました」と言いました。 

第二次世界対戦中の子供たち

 

しかし、米兵からお菓子をせがむ典型的な子供たちと異なり、彼らは違っていました。お菓子をせがむ代わりに、彼らはハルヴォーセンに「十分に食べるものがなくたって、わたしたちのことを心配しないで大丈夫だよ。だけど、わたしたちのことを見捨てないで。いつか、わたしたちは十分に食べ物を食べられるようになるだろうけれど、もし自由を失ったら二度とそれは取り戻せないから」と言いました。 

ハルヴォーセンが、お別れを言いその場を離れようとすると、止まるよう促しを受けました。彼は、この素晴らしい子供たちにもっと何かをあげたかったのですが、彼のポケットには2枚のガムしかありませんでした。「わたしは自分に、もし彼らにガムをあげれば喧嘩になると言いました。」しかし、それをしようと思ったのはハルヴォーセンの考えではありませんでした。彼は御霊に導かれたのです。 

彼は「わたしがフェンスに戻ったのは、ベルのようにはっきりと聞こえた促しがあったからでした。わたしはそれが、聖霊の他のなにものでもなかったことを知っています。それは、『フェンスに戻りなさい』と言いました。まるで、活字でタイプされたように、はっきりと聞こえました」と言いました。

2枚のガムを半分にすると、ハルヴォーセンはフェンス越しにガムを渡しました。彼は、子供たちはただ包み紙を回し合い、ペパーミントの香りをかぐと、まるでその香りの魔法にかかったかのように、子供たちの顔がぱっと明るくなるの見て驚きました。 

彼は思い出しながら「わたしはただあぜんと立ち尽くしました。まったく、30セントあればガムを1箱あげられる。キャンディー・バーほどもしない安いものじゃないか、とつぶやきました」と話しました。しかし、ハルヴォーセンはフェンスに戻ることはできませんでした。最初にフェンスの所に行ったこと自体、規則を破ることでした。彼は子供たちにチョコレートの配給を届ける方法を考えました。彼は、西ドイツに着陸するために町の上を飛ぶ際に、飛行機からチョコレートを落とすことを思いつきました。

こうしてキャンディー・ボンバーが誕生しました。 

キャンディー・ボンバー

ハンカチのパラシュートに結ばれた一握りのキャンディーが最初に落下されてから、ハルヴォーセンのシンプルなアイディアは、爆発的に広まりました。映像に収められると、この作戦は彼の大佐の耳に入り、将官の許可を得て、その目的のためにアメリカン・スクールの子供たちやキャンディー会社は時間とキャンディーを寄付し、それは国際的取り組みへと発展して行きました。ベルリンの上空を飛ぶことが終わるまでに、ハルヴォーセンは東ベルリン公園の上空から、クリスマス・イブの3トンのキャンディーを含めて、合計23トンのキャンディーを落下させました。 

しかし、それにはただのキャンディー以上の価値が常にありました。ハルヴォーセンは、ある出来事を覚えています。キャンディー・ボンバーとしての使命を果たしてから50年後、ある男性が近づいてきて「わたしは60歳ですが、50年前、わたしはベルリンの学校に通っていました。クラスの人数は少なく、その日は雨が降っていました。突然、雲と雨の合間からパラシュートが降りて来ました。真新しいハーシーのチョコレートが、わたしの足元に落ちました。一週間、そのキャンディー・バーを食べずにとっておきました。昼も夜も大切にしました。しかし、チョコレートが大切だったのではありません。大切なのは、アメリカの誰かがわたしたちの苦しみを知っていてくれたことでした。誰かが、気にかけてくれていました。わたしは、配給が少なくても生きられますが、希望がなければ生きられません」と話しました。

 

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この記事はもともと によって書かれ、LDSLivingに”President Uchtdorf Meets Harrison Ford, Presents “Candy Bomber” with Aviation Award“という題名で投稿されたものです。