エライザ・ロクシー・スノーはモルモン教の歴史において最も深く尊敬された女性のうちの一人です。彼女は本当に素晴らしい女性で、一度イエス・キリストの完全な福音を見出すと、生涯を地上における神の王国建設に捧げました。


エライザ・スノーの幼少期

エライザは1804年1月21日、マサチューセッツ州ベケットでオリバーとロゼッタ・ペティボーン・スノーの二番目の娘として生まれました。彼女は経済的に恵まれた環境で育ち、教育もたくさん受けました。当時としては珍しく、父親の秘書として一時期雇われ、その有能さを示しました。またあるときは、裁縫師や学校の教師として雇われました。エライザはおそらく詩人として最も有名ではないかと思います。モルモン教に入る前は詩で収入を得ていましたが、改宗してからは詩ではお金をもらいませんでした。彼女はその才能は神から与えられたもので、自由にそれを分かち合うのは自分の義務であると信じていたからです。最初の詩は1825年に出版されました。1836年から1838年にかけての短い期間は人生の中で非常な悲しみの時で、その間に詩はまったく書きませんでした。その他は彼女は生涯のほとんどの間、とぎれることなく詩を書いていました。

1828年に詩作を通してエライザに求婚してきた男性がいました。しかし、彼は自分が編集者である『西クーリエ』に彼女についての非常に厚かましい詩を出版し、彼女を怒らせてしまいました。何度も求婚しましたが、彼女は彼を拒否しました。これは彼女がモルモン教に入る数年前のことでしたが、若い頃を思い出し、次のように述べています。

わたしはずっと独身でした。そしてそのときはなぜか分からなかったのです。でも完全な福音を知り、過去の生涯の出来事を思い起こすと、わたしはそのような状況で現世にあって、ほかの何にもまして神の摂理の中で優しく却下する御手を認めるのを感じました。そして今でも感じています。以前求婚して来た男性の一人が福音を受け入れたかは分かりません。それはわたしが単純に結婚の絆から守られたということを示し、すべての可能性において、わたしが宗教を受け入れ、あるいは宗教を自由に実践することを妨げたのかもしれません。そして今、宗教はわたしの命よりも大切なのです。(『Sketch』Beecher、Personal Writings,16)

エライザの家族の多くは教会に入りました。エライザの姉のレオノラと母ロゼッタは最初にモルモン教に入りました。エライザがこれが自分が望んでいたステップであると確信するまで4年以上かかりました。彼女が1835年にバプテスマを受けたときには31歳でした。バプテスマを受けて間もなく、エライザと彼女の家族は初期のモルモン教の聖徒たちの宿命であった迫害を経験しました。エライザの両親と兄弟の何人かは迫害のため、教会から距離を置きました。しかしエライザは忠実で、生涯勇敢でした。

彼女の詩に対する愛と意志は、すぐに聖徒たちの間でよく知られるようになりました。彼女は聖徒の新聞である『デゼレトニュース』にしばしば詩を投稿しました。また賛美歌もたくさん書いており、今日でもそのうちのいくつかは聖徒らに愛唱されています。イリノイ州ノーブーでは、彼女はノーブー女性扶助協会の最初の集会の書記を務めるように召されました。この組織は現在、扶助協会と呼ばれ、世界で最も大きい女性の組織となっています。

オハイオ州カートランドにおいて神殿の献堂式に出席したエライザにとって、その経験は大きな衝撃となりました。献堂式で奇跡が起きたことについては多くの記録があり、エライザはその場にいることができたことを幸運に思いました。彼女はカートランド神殿に自分が受け継いだ遺産を寄贈したほどで、自分の生活は学校で教えることでまかないました。エライザの弟のロレンゾがカートランドの彼女を訪ね、最終的には教会に入りました。彼は1898年にモルモン教の第5代大管長に召されました。

迫害が酷くなり、モルモン教の聖徒たちはオハイオ州を逃れて、ミズーリ州に落ち着きました。そこでは新たなコミュニティーで、そこの住民との間に緊張が高まりました。これらのミズーリでの緊張は聖徒の中で頂点に達し、再び家を追われてしまいました。ずっと後になってエライザはモルモン教の若者向けの刊行物『少年のためのインストラクター』の中でそのことの状態を、子供でも理解できるような方法でとらえようとしました。彼女は飼い犬ジャックについて書きました。

うちには移動中の馬車を守るためにオハイオ州から父が連れてきたとても大きな番犬のジャックがいました。弟のロレンゾはとても重い病気でしたが、ライフルを持って外に出られるようになってからは、七面鳥を狩るのを楽しみにしていました。七面鳥はミズーリのその地域には沢山いました。狩りに行くときはいつでも番犬のジャックを連れて行きました。若い読者の方々はお分かりのように、犬の中にはとても賢い犬がいますが、ジャックはその中でもとびぬけていて、主人はまだ病み上がりであることを理解して、弟の後ろをできるだけ静かに歩き、七面鳥の群れが見える所に来ると、主人の前に周り、主人が頭の上に銃を置いて撃つことができるように、頭を上げてじっとしていました。

…ジャックは家族みんなから大切にされ、犬ではあっても、真の友人だったので尊敬を受けていました。…わたしたちはジャックのことを信用していたので、たとえ暴徒に囲まれたことが分かっても、わたしたちは安心して夜床につくことができました。誰かが家に近づいたら、忠実なジャックが必ず吠えることを知っていたからです。

わたしの犬ジャックがそれからどうなったか教えてあげましょう。わたしたちのミズーリの隣人はジャックが忠実であることを知り、ジャックを恐れ、どこかにおびき出そうとしましたが、わたしたちから離すことが不可能であると知ると、ジャックを撃ち殺してしまいました。わたしたちはかわいそうなジャックを失ったことをとても悲しみ、二人の弟たちが墓を掘って丁重に葬り、子供なりの言葉でジャックを殉教者と呼びました。(スノー『Little Incidents for Little Readers』Juvenile Instructor、1866年11月15日、2;『Eliza: The Life and Faith of Eliza R. Snow』Davidson and Derrからの引用より)

 

エライザ・R・スノーの肖像画

写真はlds.orgより


ノーブーでの日々と多妻結婚

1838年の終わり頃、ジョセフ・スミスはエライザにもう一度、詩によって聖徒を力づけてくれないかと個人的に依頼しました。彼女はその機会を受け入れましたが、それは容易なことではありませんでした。しかし後の生涯、彼女は詩を書き続けました。聖徒たちがミズーリを追い出された後、イリノイ州のノーブーに落ち着き、しばらくの間平和と繁栄を享受しました。エライザはノーブーを愛し、そこでの時間を楽しみました。彼女はしばらくの間、ジョセフとエマ・スミスの所に住みました。

彼女は完成したノーブー神殿で神殿のエンダウメントを受けるという特権は、生涯の最も重要なことの一つであると感じました。彼女はノーブー神殿と後にソルトレーク神殿のエンダウメントハウスで儀式執行者として奉仕し、神殿の儀式を受けていたほかの女性たちを助けました。彼女は神殿を愛し、そこで奉仕することを心から愛しました。

エライザにとってもう一つ永遠に重要なことは、ノーブーにいる間に起こりました。1842年6月29日、神が明らかにされた「結婚の日の栄の律法」により、彼女はジョセフ・スミスに永遠に妻として結び固められました。(Snow、「Sketch」Beecher、『Personal Writings』、17)エライザは多妻結婚をした女性たちの一人でしたが、その原則はずっと後になるまであまり広がりませんでした。世の中がそれにひどく反発したからです。

その原則を最初に聞いたすべての人はそれに反発しました。それにはジョセフ・スミス自身も含まれます。彼はそれを実行に移したくなかったので、できる限りそれを延期しました。しかしそれを守るように言われた人々はそれが神から来た原則であるという霊的な個人的な証を聖霊から受けたのが、その原則が真実であるということの証明でした。エライザも例外ではありませんでした。

最初、その考えは「非常にわたしの気持ちには不快」であったと記しています。西洋の文化で育った人はだれでも旧約聖書の多妻結婚を復活させることは好ましいものではないと思いました。しかし時間がたつにつれて、エライザは信仰と啓示により、その教えに改宗するようになったと言いました。彼女は次のように述べています。

「多妻結婚についての原則や目的に関して知識を増すようになると、それを愛するようになりました。」

彼女は生涯その原則を擁護し、「貴い、神聖な原則」(Personal Writings、17)と呼びました。

記録にはエマ・スミスは多妻結婚についての世論の中で、揺れ動いていたとあります。ジョセフ・スミスの殉教後、彼女はジョセフがその原則について教えてくれたことはないと断言しましたが、ジョセフに近い人々はそれは真実ではないと知っていました。しかしエマに対する尊敬から、エマ・スミスやブリガム・ヤング(エライザの二番目の夫)の死後まで、エライザがジョセフの名前を死ぬまで、エライザ・R・スノー・スミスとして知られていたということは隠されていました。エライザはその原則が神により明らかにされたことを信じ、死ぬまでそれを擁護しました。しかしながら、彼女の確固とした様子から判断して、教会が神の指示により多妻結婚から一夫一婦制に移行しましたが、彼女はそれを支持していたように見えます。彼女は預言者が神から召されており、神の御名によって語るということを信じていたので、信仰を持って預言者に従いました。

イリノイ州での迫害は非常に強くなったので、ジョセフ・スミスと兄のハイラムは1844年6月27日についに殉教しました。聖徒は再び家を追い出されました。ジョセフを殺した人々は、モルモン教の運動は収束すると期待していましたが、彼らは聖徒の信仰を誤解していたのです。彼らが礼拝していたのはジョセフ・スミスではなかったからです。彼らが礼拝していたのは教会を導くイエス・キリストでした。ブリガム・ヤングは神により西部に聖徒たちを導き、今日の第2代の預言者となるよう召されました。エライザは聖徒とともに長い辛い旅に出ました。旅は悲惨で死者も多数いましたが、信仰と決意により続けられました。旅は1846年の2月12日に出発し、1847年の10月まで続きました。当時、女性たちは困窮し、エライザは1844年10月にブリガム・ヤングと現世だけの(死が二人を分かつまで)の結婚をしました。結婚により、エライザには守りと家が与えられましたが、当時の状況により、聖徒が一度ソルトレーク渓谷に落ち着くと、この状態は実際2年と続きませんでした。モルモン教の教義では、永遠の結婚は永遠に続く祝福を提供する一方、女性は一人の男性にのみ結び固められると教えているからです。エライザはすでにジョセフと永遠の結婚をしていたので、ブリガム・ヤングとの結婚は永遠の祝福を保証するというよりも、経済的なものを提供するというものでした。

開拓者の旅

開拓者の旅


ユタに定住するモルモン教の聖徒たち

その旅は長く困難なものでしたが、エライザや他の聖徒たちはユタまでの長い旅につぶやくことはありませんでした。ひどい苦難の中で、彼らの神に対する信仰は堅固なものとなったのです。生涯の友情が築かれ、のちにユタ準州となった王国の建設を助けました。長い年月がかかりましたが、聖徒は砂漠をバラが咲くような地に開拓しました。

数人の女性たちと一緒に住んだ後、エライザはソルトレークのブリガム・ヤングの邸宅であるライオンハウスに引っ越しました。そこでは自分の部屋を持ちましたが、家の周りで子供たちの面倒を見ました。彼女はそこでとても幸せに過ごし、子供たち皆といることが大好きだと記しています。また、素晴らしい裁縫の腕を持ちました。又、献身的な看護師でもありました。

エライザは詩を書き続け、1856年に最初の詩集を出版しました。ブリガム・ヤングは1867年から68年にかけて扶助協会を組織するにあたり、彼女の多くの才能を何度も活かしました。2年後、ヤングは現在の若い女性(12歳から17歳の女性たちの組織)の前身である組織を設立するために、エライザを召しました。彼女は女性たちが共に集まり、互いの心を啓発するよう励ましました。彼女はモルモン教の女性がそれぞれの定住地で共同の店を持ち、自分たちの新聞『the Woman’s Exponent』を作り、家庭で養蚕をし、多くの女性が医科大学に進む援助をしました。エライザは詩や散文を通して、教会員ではない人々に福音やその教義を伝え続けました。

1872年10月、エライザは複数のモルモン教の指導者とヨーロッパの国々や聖地を訪れました。それは彼女の生涯の絶頂期の一つでした。彼女は旅費を援助してくれたモルモン教の姉妹たちに、自分の体験の記事や詩を、新聞のために送って分かち合いました。

一人の女性が生涯でそれほど多くのことを成し遂げたことを理解するのは困難なことですが、エライザはそこで終わりませんでした。1878年に彼女と2人の女性は、教会の子供たちを助けるための組織を作ることを決めました。教会の指導者の全面的な支援を得て、彼女たちはあちこちの定住地の子供たちを組織し始めました。これは初等協会(1歳半から11歳までの子供たちのための組織)として知られる組織になりました。これは子供たちにレッスン、活動、歌を通じて子供たちに福音の原則を教える組織です。

生涯の終わりまで奉仕の模範を続け、エライザは1880年11月から翌年の3月にかけて、ユタの5つの郡を訪れ、それぞれの場所で人々を力づけました。その旅は困難で決して快適なものではなく、彼女の年齢では非常に厳しいものであったに違いありません。しかし彼女は姉妹たちや青少年を訪問することを喜びとしていました。

彼女は1887年12月5日に亡くなり、その死は彼女を知る人々すべてに悲しみをもたらしました。彼女の死は切実なものに感じられましたが、教会の会員たちに残した受け継ぎは、現代でも続いています。彼女の忠実さと忍耐は世の中にあって模範となっているのです。

資料:

Eliza: 『The Life and Faith of Eliza R. Snow』、Karen Lynn Davidson, Jill Mulvay Derr


この記事はドリス・ホワイトによって書かれたものです。