輪廻とモルモン教の相違点

輪廻とモルモン教の相違点

一般的な表現を使うと、輪廻とは「魂が新しい肉体に再生するないしは移り住むこと」と定義できるでしょう。Dictionary.comによると、それは「魂が、死によって肉体を去ってから、地上に戻ってきて、他の人の体ないしは他の形態のものに入っていくこと」です。アジアの数種類の宗教、ヒンズー教、仏教、シーク教、ジェイン教は共通して輪廻という考えを信じています。しかし、モルモン教はその考え方を受け入れません。

スペンサー・J・ポーマーは1989年には韓国のソウル神殿長ででした。また、ブリガム・ヤング大学(BYU)の世界の比較宗教についての教授でしたが、輪廻について次のように述べています。

輪廻を推奨する人たちは、この世は私たちがこれまで生き、将来生きるであろうたくさんの生涯のほんの1つのものであると信じています。彼らはまた輪廻は命(あるいは魂)が一つの物質的な体から別の体に移り住むプロセスで、出生と死を繰返すと信じています。この考えは人間の霊についてのみならず、動物や、時には植物の霊についても適応されます。 [1]

「カルマの法則」

輪廻に対する信仰は「カルマの法則」に依拠しています。ヒンズー教や仏教では、「カルマ」とは「人のこの世とそれまでの生存形態で行ってきたことの総体が、将来の存在の運命を決定すると見なす考えです。」例えば、もしある人が良いことをすれば、何か良いことがその人に起こる。反対も然りです。別の言い方をすれば、ヒンズー教や仏教は、その人の行動が、それが良いものであれ、悪いものであれ、この世であれ、あるいは来世であれ、避けられない結果をもたらすという考えです。ですから、カルマは宇宙の不正義の法則と見なすことができます。この法則によると、「出生、社会、人種、宇宙における存在の不平等は、それまでの存在の中で積み重ねられた行為の総体によって生み出された個人個人のカルマの結果であると見なされます。 [2]

それから「カルマの法則」は、モルモン教の会員がもつ信条である、「収穫の法則」と対比することができます。新約聖書のガラテヤ6:7−9には次のような勧告が記されています。

「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るのであろう。わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。」

ポーマーはさらに述べています。

輪廻を信じる人々は出生の不平等(神聖であるか人間的であるか、裕福か貧しいか、健康か障害を持っているか)はすべて、過去の存在の中で自分が行ってきたことにより決定され、その人の「再生」のサイクルは永遠の時の中で、自分が積み重ねてきたカルマに基づいていると見なします。しかし、人がある特定の「生涯」あるいは輪廻の中で行うことは、それだけでは永遠の状態を決定することができないのです。私たちの前世での生活、出生、この世での死すべき運命、死、死後の生活、その可能性についてはあまりにも不確かなことが多いので、とりわけ生きている人と亡くなった人との間のコミュニケーションについてそうですが、モルモン教の聖徒が他の人々が輪廻によって予想される現実に興味を抱くようになると知っても、驚かないはずです。 [3]

 

輪廻とモルモン教の教義の共通点

イエス・キリスト教会の会員は、人の命はこの世に生まれてきた時から始まるとは考えていません。むしろ私たちが天の父の霊の子供であり、神の御もとで、前世の時に「第一の位」にあって生活していたと信じています。この世に生まれてきた時に、肉体を受けました。モルモン教の会員はまた、私たちの存在は死によって終わるとは信じていません。また、この世の「一生」だけで完全になることができるとも信じていません。現代の聖典であるアブラハム書3:22−26により次のことが明らかにされています。

「さて、主はわたしアブラハムに、世界が存在する前に組織された英知を見せてくださった。そして、これらすべての中には、高潔で偉大な者たちが多くいた。神がこれらの者を見られると、彼らは良かった。そこで、神は彼らの中に立って言われた。『わたしはこれらの者を、治める者としよう。』神は霊であったこれらの者の中に立って、見て、彼らを良しとされたからである。また、神はわたしに言われた。『アブラハム、あなたはこれらの者の1人である。あなたは生まれる前に選ばれたのである。』そして、彼らの中に神のような者が一人立ち、ともにいた者たちに言った。『あそこに空間があるので、わたしたちは降って行こう。そして、これらの材料を取って、これらの者が住む地を造ろう。そして、わたしたちはこれによって彼らを試し、何であろうと、主なる彼らの神が命じられるすべてのことを彼らがなすかどうかを見よう。第一の位を守る者は付け加えられるであろう。また、第一の位を守らない者は、第一の位を守る者と同じ王国で栄光を受けることはない。さらに、第二の位を守る者は、とこしえに栄光をその頭に付け加えられるであろう。』」

モルモン教はさらにすべてのものは、動植物も含め、この世に存在する前に霊の状態でまず創造されたと信じています。もう一度、現代の聖典はこの希有な真理を明らかにしています。高価なる真珠のモーセ3:5−7に、次のように書かれています。

「地にはまだ野の植物もなく、また野の草も生えていなかった。主なる神であるわたしは、わたしが語ったすべてのものを、それらが地の面に自然に存在するに先立って霊的に創造した。主なる神であるわたしは、地の面にまだ雨を降らしていなかったからである。主なる神であるわたしは、人の子らをすべて創造していたが、まだ土を耕す人はいなかった。わたしは彼らを天で創造したのである。そして、地上にも、水の中にも、空にも、まだ肉なるものはいなかった。しかし、主なる神であるわたしが語ると、きりが地から立ち上って、土の全面を潤した。主なる神であるわたしは、土のちりで人を形造り、命の息をその鼻に吹き入れた。そこで人は生けるもの、地上における最初の肉なるもの、また最初の人となった。しかしながら、すべてのものは以前に創造されたが、それは、わたしの言葉に従って霊的に創造され、造られたのである。」

それと同様に、聖典も末日の預言者の教えも、この世で正しい生活をすることが、次の世界での永遠の幸福のために重要な要素であるという事実を支持しています。

 

輪廻とモルモン教の教義との相違点

類似点があるとはいえ、大きな相違もあります。モルモン教の教義は、人類がこの世の死すべき生涯から、不死不滅の状態へ、さらには永遠の生命へと進んで行く過渡期であると教えています。この時期を進む時、一つの存在状態から別の状態に移行します。しかし、このような教義は、輪廻の考えと数点において異なります。

まず、モルモン教は使徒パウロが教えたように、一人一人には肉体の死がただ1度起こると信じています。パウロはヘブル9:27で、「そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている」と教えました。モルモン書(聖書に該当する聖典で、イエス・キリストについてのもう一つの証)のアミュレクも次のように教えています。

「さて見よ、わたしは死すべき体の死について、また死すべき体の復活についてあなたに語ってきた。わたしはあなたに言う。この死すべき体は不死不滅の体によみがえる。死から、すなわち第一の死から命に移り、すべての人がもう死ぬことはあり得ない。彼らの霊は体と結合して、決して分離しない。このように相合したものは、霊的な、不死不滅のものとなり、彼らはもはや朽ちることがない。」(アルマ11:45)

輪廻は多くの死を前提としていますが、モルモン教の神学によると、復活(輪廻)は死の後に続きます。(教義と聖約29:24−25参照)

2番目に、輪廻では、肉体の体を得ることはほとんど何の影響ももっていません。モルモン教の教えでは、身体を得ることは神のようになるための前提です。復活では、霊がこの世で得ていた肉体に宿るようになります。この体は神の形にかたどって造られています。これは他の人々の形でもなければ、植物や動物のものではありません。肉体の死は体が霊と分かれる現象で、復活とはこの二つを元通りにするプロセスで、そのまま永遠に続きます。ですから、「霊と体が人をなす。死者の中からの復活は、人の贖いである。」(教義と聖約88:15−16

3番目に、モルモン教の神学によると、この世の生活は試しです。「そして、わたしたちはこれによって彼らを試し、何であろうと、主なる彼らの神が命じられるすべてのことを彼らがなすかどうかを見よう。」(アブラハム3:25)他方、輪廻によると、将来にはたくさんの生涯があるのです。ですから、すぐに悔い改めなければならないという緊急性がありません。モルモン書のアミュレクは、今日は救いの日であると教えています。「見よ、現世は人が神にお会いする用意をする時期である。まことに、現世の生涯は、人が各自の務めを果たす時期である。」(アルマ34:32)

4番目に、輪廻は、キリストの使命と目的と主の無限の贖いについて強く否定します。この点についてポーマーは次のようにコメントしています。

輪廻を信じる人にとっては、キリストは一時的な使命を帯びた救い主ということになり、それは多くの輪廻の可能性の一つでしかありません。

そのような前提は福音の最も根底にある教えと相容れません。福音では、ただ唯一の贖いが主イエス・キリストによってなされるのです。このキリストの憐れみと愛や贖いの究極的な重要性を否定することによって、輪廻を信じる人々は救い主を王の王、主の主、私たちがそれによって救われる唯一の御名であることを認めることができないことがわかります。(教義と聖約18:23参照)[4]