編集者の一言:先日は「モルモン教は安全な場所①」では、善悪の価値観ですら変わりゆく世の中で、何が安全な考え方、また信仰なのかを話し、モルモン教が安全な場所であるというお話をしました。今回は、具体的に、アメリカでの宗教の価値観の変化、また、誤った理由で宗教を実践することについて紹介します。

イエス・キリスト

アメリカ人の宗教の価値の変化

多くのアメリカ人は宗教的な教えを、人が考え出した理想や信条を優先して,拒否しています。2012年のピュー研究所の調査では,「無宗教の増加」がハイライトされていました。アメリカ人の5人に1人、そして30歳未満の大人の3分の1がどの宗教にも属していません。その調査によると:

「この大きな,また増加しつつあるアメリカ人のグループは、一般のアメリカ人と比べて多くの伝統的な尺度で見て宗教的な傾向が少なく,その傾向には宗教的な行事に出席する頻度,生活の中で宗教に重要性を与える程度などに関わっています・・・。わずかばかりの例外としては・・・どこにも所属していない人たちは自分にあった宗教を探しているわけではないと言います。圧倒的に,彼らは宗教的な組織がお金や権力に関心があって,規則に注意し過ぎて,政治に関わり過ぎると考えています。」 [4]

最近,一つの記事がアメリカにおける福音派の衰退について議論しています。:

「ほんの10年前,福音派のキリスト教はアメリカにおける主要な宗教的な運動をしていました。福音派は,神学的に言ってより多様で,世俗の社会により開かれていて,政治的な権力と文化的な注目の的を目指して行進していました。 彼らには最も大きな教会堂があり,最も金銭的に恵まれ,影響力のある政府のロビーイストを擁しました。ジョージ・W・ブッシュ大統領においては,自由世界の指導者そのものでした。確かに今日でさえも,たいていの人たちは合衆国が先進国の中で大いに霊的な部分を重視している例外的な国だと見ているようです。この国では科学やテクノロージの進歩しており,頑強に保守的な宗教性と共存しているのです。しかし,現実は,おおかた教会関係のサークルの外ではあまり知られていませんが,福音派は次第に減少しているばかりでなく,人口的にも文化の面でも崖っぷちに立たされています。2012年に行なわれた最近のピュー研究センターの国民の宗教的な態度についての調査では,19%のアメリカ人が自分は白人の福音派のプロテスタントであると認めていたのですが,数年前には21%だったのです。わずかにどこの宗派にも属していない人口(19.6%)が勝っていました。それは初めて両者が逆転した年でした。[5]宗教に関する不平はその教えに従って生きることへの抵抗から来ていてます。それはいわゆる「道徳の相対主義」の台頭を表していました。イエス・キリストの使徒であるダリン・H・オークス長老はこう告げています。:

「道徳的相対主義という哲学は,自分で善悪の違いを決めるという考えです。しかし、アメリカや他の西洋諸国では多くの人にとって非公式の信条になっています。極端なレベルでは,かつては局所的で,できもののように覆いで隠されていたものが,今では法制化されて,旗印のように行進しています。この哲学に説得されて,次の世代の多くが,自己中心的な楽しみ,異教徒的なものを塗りたくり,身体のあちこちにピアスを着け,汚い言葉を使い,露出するような衣類を身に着け,ポルノグラフィー,不正直,そして品格をおとしめるような性的な放縦に陥っています。」

善悪に関する基本的な信条について,年取った世代と若い世代の間には警戒させるような相違があります。20年前には,「79%のアメリカ人の成人は,『状況に関わりなくすべての人に適応する善悪についてのはっきりしたガイドラインがあると信じていました。』それに比べて,もっと最近の調査で,大学の4年生について調べたところ,4分の3は,善悪は相対的だと信じていました。 [6]

この結果の恐ろしいところは,アメリカ人は宗教的な教えから道徳的な土台を得ていることです。もしわたしたちが宗教的な信条を政策,政府,毎日の生活から取り除いてしまったら,わたしたちは自分たちを導く道徳的なコンパスを失ってしまうということです。正直,高潔さ,他者への尊敬などは宗教的な教えの中に見いだされます。生活の中で宗教の価値を低めてしまったら,あらゆる種類の偽りの説教や理想にだまされることになります。 人が宗教的でなくなればなるほど,彼らは善悪の区別,道徳と不道徳の区別があまりできなくなっていきます。 彼らには導いてくれる道徳的なコンパスがないのです。結果は利己心の増加で,「わたし」世代は子供たちに何を残せるかというより,今にもっと関心を持っている世代となります。

誤った理由での宗教

宗教自体を幻想だとして非難する人もいますし,宗教的な指導者も組織も権力とお金を欲していると批判する人もいます。不運にも,このようなことが起こることもあります。しかし,中に間違った理由で宗教を実践し,教えるからという理由で,宗教から出て来る善を一切評価しないとしたらそれは明らかに不公正なことです。わたしは,確かに宗教的な指導者と組織の大半は,どのような宗派であれ,誉れある正しい動機を持っていると信じています。

誤った理由で宗教を教えたり創設したりする実践を偽善売教と言います。ペテロが述べているのは:

「あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし,恥ずべき利得のためではなく,本心から,それをしなさい。」(1ペテロ5:2モルモン書は,もう一つのイエス・キリストの証ですが,聖書と対をなす聖典で,神が古代アメリカの住民に行なわれたことが記録されています。次のように教えています。「偽善売教とは,利益と世の誉れを得るために,説教をして自分自身を世の光とすることであって,シオンの幸いを求めることではない。」(2ニーファイ26:29

ポール・V・ジョンソン長老は,モルモン教の七十人第一定委員会です。(古代と同じように七十人は福音を宣べ,イエス・キリスト教会を地上に設立するために召される)次のように述べています。「自己を光とすることが偽善売教の問題であると思われます。自分自身を光とすることには,利益や称賛を得ることが含まれます・・・。心が問題です。何が動機でしょうか?」 [7]そう考えると,偽善売教は心の罪です。宗教の指導者が金銭や権力を求めるのでしょうか。それとも神の言葉を教えようとしているのでしょうか。ジョンソン長老は偽善売教のもたらす悪について説明して:「非常に大きな危険性は教える時に力がないことだと思います。あるいは力強く教えても,神の力からではないかもしれません。(教義と聖約50:13−23参照)もしかすると,感情的に力強く,あるいは学問的に力強いかもしれませんが,学ぶ者が必要としている生活に永続的な変化をもたらすことを助けません。

偽善売教に関わる時に,間違ったメッセージを教える可能性があります。教えられた人は教師を崇拝するかもしれませんが,福音の教義との本当の関係を得ることができません。これは息子に強制的に正直になれと言っていて,自分では税で偽りの申告をしている父親に似ています。言葉は語られているのですが,そこには力がありません。学んでいる方は正確に何が起こっているか分からないかもしれませんが,何かが欠けていると感じるでしょう。それは御霊が,本来ならそこにあるはずなのに,そこで感じられないからです。 [7]

宗教の指導者が誤った理由で,権力や栄光や金銭などのために教える場合に,真理を真面目に探究する人たち,本当に神を知ろうと探求する人たちを混乱させます。しかし,救い主は違いを見分ける方法を教えてくださっています。「あなたがたは,その実によって彼らを見わけるであろう。」(マタイ7:16)純粋な心と動機をもった宗教の組織や指導者は世の中に沢山良いことをなすことができますが,彼らの焦点は救い主の模範に従うことです。