2012年の夏、わたしたち夫婦は日本福岡神殿でこの世から永遠にわたって結び固められました。家族と友人に祝福されて、2人で築いていく未来と家庭に希望を抱いていました。それから今日まで、わたしたちはとても充実した結婚生活を送っています。ただ一つ、今も2人きりの家族であることを除いて。。。終わりの見えない努力はその頃から始まっていたのです。

 

終わりの見えない努力

結婚して9ヶ月経った頃から不妊科に通うようになり、4年にわたる不妊治療の日々が始まりました。

不妊治療をしていると、辛いことはたくさんあります。まず最初に直面するのは金銭的な問題です。不妊治療は保険がきかないので、すべて自費でまかなわなければなりません。病院によって金額はまちまちですが、たいていは何十万、何百万というお金がかかります。

また、フェイスブックなどで友人の懐妊や出産を知ったとき、もちろん彼らを祝福する気持ちはありますが、同時に心は少し痛みます。うまく言えませんが、たとえるなら心臓の一部が割れて、そのひとかけらが落ちていくような感覚です。そのような記事を読むたびに、ポロリとこぼれ落ちていきます。

でも、何よりもわたしが、不妊治療で辛いと感じることは「ゴールが見えないこと」です。勉強やダイエットなら、ある程度全体像は見えています。問題集を何冊か勉強すればテストではそれなりにいい点数が取れますし、30分のウォーキングを週4日欠かさず続ければ数ヶ月後には体重が落ちているでしょう。ですが、不妊治療にはそれがありません。どんな治療をどれだけの期間続ければ子供が授かれるのか分からないのです。

性格や体質が人それぞれ異なるのと同じように、不妊治療も人によってその過程は違ってきます。タイミング療法で授かる人もいれば、10回目の人工授精で授かる人もいます。その両方を経て体外受精を試みても授かれない人もたくさんいるはずです。わたしの場合もタイミング療法から始まって、人工授精は5回とも陰性、そして先日2回目の体外受精を試みましたが妊娠には至りませんでした。

 

主の御心と自分の望み

心が元気なときは電車で2駅隣の病院に行くことも、ホルモンを補充するための痛い筋肉注射も、卵子をたくさん作るため1日3回決まった時間にささなければならない点鼻薬も平気です。ですが、心が弱っているときはゴールの見えない努力にむなしさを感じ、がんばることに疲れてしまうのです。すべては主が与えられた試練で、きっと主の御心にかなう時に授かると信じていましたし、その教えに希望を持っているつもりでした。だけど、「今はまだ『主の時』じゃないかもしれないのに、祈り求めて意味があるのか?」と考え始めるようになりました。御心でなければ願い求めたってかなわないのに。そう思うと心から求める気持ちはなくなり、「子供を授かれるように」と祈ることもなくなりました。そして、「もう全部やめたい」と思い始めました。こんな状態で努力し続けるよりも、やめてしまった方が楽だと思えたのです。

そんな思いを抱えながら医師に言われるがまま治療を続けていたとき、リアホナのある記事を読みました。2016年8月号に掲載された、デビッド・A・ベドナー長老の「主の御心と時期を受け入れる」というお話です。

そのお話でベドナー長老は、ある若い夫婦が経験した試練について触れています。結婚からわずか3週間後、夫のジョンが骨肉腫に冒されていることが判明します。彼は治療を進めるうちに、主の御心と自分の望みについて葛藤を抱き始め、そのことについて祈りました。彼はこう話しています。

 

「・・・わたしは、変わることのない主の御心に、キリストを信じる自分の信仰を合わせようと必死に努めていました。主が癒やしてくださるという信仰を持つことと主に信頼を置くこととは関連がないように思え、時には互いに相反するように感じることもありました。『最終的に主の御心が実現するのであれば、なぜ自分には信仰が必要なのですか』と尋ねました。この経験の後、少なくとも自分の場合、信仰を持つということは必ずしも主が癒やしてくださるかどうかを知ることではなく、主はわたしを癒やす力を持っておられると知ることなのだと分かりました。主はその力をお持ちであり、それが起こるかどうかは主にお任せする以外になかったのです。

 それら二つの考えがわたしの中で共存するようになり、イエス・キリストへの信仰を強めることと、主の御心に完全に従うことに焦点を当てるようになると、これまで以上に大きな慰めと平安が訪れました。」※1

 

わたしはこの記事を泣きながら読みました。主が、ベドナー長老のお話を通してわたしに語りかけておられるのを感じました。彼の証は、主の御心と自分の望みの関係性に苦しんでいたわたしへの答えだったのです。

 

「絶対にここで身を引くわけにはいかない」

このお話ではニール・A・マックスウェル長老についても触れられています。1997年1月、マックスウェル長老は病院にいました。患っていた白血病の治療のため、辛い化学療法を受けるためでした。彼は病室で妻の手を取ってこう言いました。「絶対にここで身を引くわけにはいかないんだ。」※2

イエス・キリストはゲッセマネの園でわたしの罪とわたしが経験するあらゆる肉体的、精神的苦痛を経験された時に、「・・・わたしは、その苦い杯を飲まずに身を引くことができればそうしたいと思った。」と言っておられます。でも、主が身を引くことはありませんでした。それは主が、天父の御心に完全に従うという強い信仰をお持ちだったからです。わたしのために苦しまれた主が身を引かれることはなかったのに、わたしが身を引くことはできないと思いました。わたしが手を伸ばせば、主は必ず助けてくださいます。苦しみを平安に変え、悲しむときに慰めを与えてくださいます。わたしが力を注ぐべきだったのは『いつ祈りがかなえられるかを知ること』ではなく、『主に頼り、この試練から学び成長すること』だったのです。

べドナー長老のお話を読んでから、主の御心と自分の望みの関係性について思い悩む回数はだいぶ減りました。いつ子供を授かることができるのか分かりませんし、寂しさや辛い気持ちが完全になくなることはないと思います。時々がんばることが辛くなり身を引きたくなりますが、どうにか踏みとどまっています。辛い気持ちを天父に打ち明け、助けを祈り求めるときにいつも平安と慰めを感じられるからです。そして、ベドナー長老のお話を読み返してこの大切な原則を思い出すようにしています。

化学療法を受けられたのと同じ年、10月の総大会でマックスウェル長老はこのようにお話されました

 「・・・試練や苦難に遭うとき、わたしたちも、イエスがされたように、御父に助けを求めることができます。『身を引く』すなわち逃げ出すことがないように祈るのです(教義と聖約19:18)。身を引かないことは、生き延びる事よりも重要です。さらに、恨みを抱かずに苦難を経験するのは、イエスの行為にならうことでもあるのです。」※3

わたしたちが試練を受けるとき、主の御心を受け入れ、身を引くことなく『その日』が来るまで努力し続けることができるよう、心から願っています。

 

引用

※1 デビッド・A・べドナー「主の御心と時期を受け入れる」『リアホナ』2016年8月号, 22

※2 同上, 18

※3 ニール・A・マックスウェル「キリストの贖いの血の効力を及ぼす」『聖徒の道』1998年1月号, 26