今回はよく議論される話題について紹介します。例えば追い越し車線です。誰かを追い越すつもりでないなら、追い越し車線を走らないでください。追い越し車線はそのまま走り続けるためのものではありません。やめましょう。これについては白熱する人もいるかもしれませんが、今回のテーマは、「人はどうやって救われるのか?キリストの恵みによってか?それとも行いによってか?」です。

多くの宗派は、人はキリストの恵みによって救われると信じています。なぜでしょうか?なぜなら聖書にそう書かれているからです。納得ですよね?末日聖徒が救いについて信じていることは、よく誤解されるので、できるだけ分かりやすく説明していきます。

みなさんに覚えておいて欲しいことがあります。末日聖徒は、自分の行いによって救われるとは信じていません。救うことができるのはキリストだけです。キリストの恵みによって人は救われます。キリストだけが、正義の要求を満たすことができます。これは救い主がわたしたちと正義の間に立ち、わたしたちの代わりに罰を引き受けて下るということです。しかし、キリストが正義の要求を満たしたからといって、わたしたちがキリストの要求を満たしたことにはなりません。これについては、後ほど詳しくお話します。

救いとは何か?

その前に、救いとは何のことなのか考えてみましょう。キリストは、何からわたしたちを救ってくださるのでしょうか?救いにはたくさんの意味があります。それは、身体的な死や、罪または霊の死からの救いのことです。キリストが復活されたことによって、宗教や行いに関わらず、すべての人が復活することをわたしたちは信じています。身体的な死からの救いは、キリストがすべての人に与える贈り物です。高齢者が横断歩道を渡るのを何回助けたとしても、わたしは自分を復活させることができません。それは、キリストにしかできないことです。

墓の前で泣いているマリアに現れた復活されたキリスト

 

キリストの恵みなしでは、罪から救われることはできません。キリストからの贈り物である救いを受けるためには、信仰、悔い改め、罪の赦しのためのバプテスマ、聖霊の賜物など、キリストが定められた条件を満たさなければなりません。

バプテスマと聖霊の賜物を授けるための按手を受ける女の子

キリストの正面の肖像画とゲッセマネの丘で祈る姿

これを聞くと、教会員のみなさんでも、「バプテスマは個人の行いに当てはまるんじゃないの?」と思うかもしれません。その通りです。でも、末日聖徒にとっては目的が違います。正義の要求を満たし、救いを得るためではないんです。キリストからの贈り物である救いを受けるために必要な条件を満たすために、バプテスマを受けます。その違いが分かりますか?

誤解しないでくださいね!バプテスマを受けないと地獄に行くという意味ではありません!昇栄って何?救いとの違いを解説の中で、この二つの違いについて詳しく説明しているので、ぜひ読んでみてください。

行いが大切な理由

大学教授であるブラッド・ウィルコックス氏が、私が今まで話してきたことを、ある講演会で的確に話しています。講演会の内容は、「キリストの恵みは十分である:諦めたいと思っている人へ」から読むことができます。とても深い内容になっていますが、なぜ末日聖徒が行いを大切にするかについて、とてもよい例えがあったので、簡単に紹介します。

キリストとわたしたちの取り決めは、母親が子どもにピアノを習わせることに、とても良く似ています。月謝を払っている母親は、子どもに見返りとして、あることを求めます。それは何でしょうか?練習です。子どもが練習をしたからといって、ピアノの先生に月謝を払えますか?いいえ。子どもが練習すれば、母親に月謝を返せますか?いいえ。子どもは、練習することで、母親がくれた贈り物に対して感謝を示します。また母親が与えてくれた機会を最大限に活かし、成長することができます。母親は、お金を返して欲しいのではありません。子どもが貰った贈り物を大切にし、成長することが、一番嬉しいのです。だから母親は、繰り返し練習するように言います。
以前、プロテスタントの友達にこう言われたことがあります。「あなたたちは、天国への切符を手に入れようとしてるみたいだね」それに対して、わたしはこう答えました。「天国を手に入れようとしているんじゃないよ。天国について学んでいるんだ。準備したり、練習したりしているんだよ!」と答えました。

結局末日聖徒は、死と罪から救われるために、恵みと行いのどちらが必要だと考えているのでしょうか?答えは、恵みです!それでは、個人の努力には意味があるのでしょうか?もちろんあります!キリストを敬い、キリストに感謝し、キリストの犠牲に頼ることは、すべて行いにあてはまります。でも、正しい行いをしていれば、キリストなしに救われるという意味ではありません。これを聞いて、何を言ってるんだ?と思う方がいるかもしれません。でも全然大丈夫です!全部を信じられなくても、わたしたちが信じていることを、少しでもよく知って貰えたらいいなと思います。

さらに詳しく知りたい方へ

今回は、どのように人が恵みによって救われるのかを、末日聖徒の視点から分かりやすく説明しています。次のモルモン書の聖句を例にとって、末日聖徒がどれほど行いを重視しているかを批判する人もいるでしょう。

わたしたちは子孫と同胞に、キリストを信じ、神と和解するように説き勧めるために、熱心に記録し続けようと務めている。それは、わたしたちが自分の行えることをすべて行った後に、神の恵みによって救われることを知っているからである(第2ニーファイ25:23)。

確かにこの聖句には、力の限りを尽くし、できる限りを行った後に、神の恵みを受けられると書かれています。しかし、ここで鍵となるのは「自分の行えることをすべて行った後に」という箇所です。わたしたちは、キリストの恵みを理解するために、できる限りのことを行います。素晴らしいことに、これは旧約聖書時代に書かれた聖句です。キリストが降誕する前から、モルモン書の民は、預言者たちからキリストの名やその教えを学んでいました。

次のモルモン書の聖句には、素晴らしい教えが含まれています。

またあなたは、若いときに贖い主の栄光を見た。だからあなたは、贖い主が肉にあって教え導かれるときにそれを受ける人々と同じように幸いである。それは、御霊は昨日も、今日も、またとこしえに変わらない御方だからである。人の堕落以来、方法が用意されており、救いは無料である(第2ニーファイ2:4)。

もし救いが本当に無料なら、わたしたちが努力する必要がなくなってしまうのでしょうか?これについてはほかのYoutubeビデオ「救いと昇栄」をご覧になれば理解が深まると思います。

恵みは救われる以上のこと

キリストの恵みによって、人は身体を持ち、存在し、生を受け呼吸しています。主の恵みのおかげで、呼吸しているのです。主の恵みのおかげで、問題を解決し、人との関係を見直し、自分の才能を見つけ育て、疑いを乗り越え、信仰を見い出します。日々、主の恵みに頼るなら、主はすべての行いや試練に対してわたしたちを祝福してくださいます。

不完全で、汚れていて、過ちを犯しやすく、感謝の念を抱かないことが度々あるわたしたちを救うために神の御子が御自身を低くされたことを思うと、驚きを覚えます。わたしは自分の限られた思考力で救い主の贖罪を理解しようと努力してきましたが、思いつく唯一の説明は、神がわたしたちを深く、完全に、永遠に愛してくださっているということです。「キリストの愛」の「広さ、長さ、高さ、深さ」は、わたしにはまるで見当がつきません。

その愛を力強く表しているものとして、聖文でしばしば神の恵みと呼ばれているものがあります。神の恵みとは、神から授けられる助けや力であり、この助けや力によって、わたしたちは現在の欠点と限界のある状態から、「真理と光を受け、ついに真理によって栄光を受けて、すべてのことを知る」昇栄した者となるのです。

神の恵みが持つもう一つの働きは、天の窓を開くことです。神は天の窓を通して力と強さという祝福を注いでくださり、それがなければとうてい力の及ばないことを成し遂げる能力をわたしたちに授けてくださいます。神の驚くべき恵みによって、その子供たちは欺く者の隠れた危険を乗り越え、罪を克服し、「キリストによって完全になる」ことができるのです。¹

正義の役割は何ですか?

すべてのキリスト教の宗派は、人はいつの日か神にお会いし、裁きを受けることを信じています。黙示録の中に、人はその行いによって裁かれると4回も書かれています。同じことがモルモン書の中に繰り返し書かれています。わたしたちは、人はすべての事柄において裁かれると信じています。それは身体的・遺伝的な構成、文化的な影響、現世での経験、育った環境、特別な試練、望み、決意など、すべてのことに及びます。ブルース・ヘイフェン長老は、同性に惹かれる人たちが直面するチャレンジについて話しました。その話の中で、死すべきこの世を旅する過酷な状況についても考慮されると言いました。

マックスウェル長老は以前、日々深刻な悩みを抱えて生きている人たちへお話されたことがあります。彼は、オリンピックの飛び込みの競技を観戦していた時、審査員が観客にも分かるフォームの美しさだけでなく、技の難易度によって点数を付けていることに気付きました。その判断基準は、審判員でないと理解できません。マックスウェル長老はその悩んでいる人たちに、主は問題の難しさを詳細までご存知で、まるで飛び込みの難易度を考慮するかのように私たちの人生を裁かれます。また現代は、同性愛に対する価値観の混乱が渦を巻き、人生の旅路をより難しくさせていると話しました。

裁きは救いの計画の中で重要な位置を占めていて、すべての人がそれを経験します。「救い」は、わたしたちが復活した後に、天の王国のいずれかを受け継ぐことを意味しています。どの王国を受け継ぐのかは、裁きの時に決まります。キリストの恵みによって、皆さんの知っている人のほとんどが、いずれかの王国に救われることになります。

恵みと行いについて、まだまだ分からないことがたくさんあると思います。質問がある方は、下のチャットボックスから気軽にお聞きください。皆さんからの連絡をお待ちしています。またこの記事に関する動画も合わせてご覧ください。

 

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