同性愛と同性婚は複雑で繊細であり、しばしば対立を生む問題です。そしてそれは、神と神の法への信仰、アイデンティティー、私たちの関係と家族、およびこの世と次の世での私たちの幸福といった、人間の一番深い感情の中心にまで及びます。モルモン教とも呼ばれる末日聖徒イエス・キリスト教会は、次のような声明を出しました。
これほど感情をかき立てたり、気配りが必要な話題は少ないでしょう。この複雑な事柄は、私たちが最も大切にしている、基本的な人間性、家族との関係、アイデンティティーおよび神の子供としての潜在力、私たちはどのように人々と接するか、キリストの弟子になるとはどういう意味かといった事柄に言及します。
同性に惹かれる経験は、多くの人々にとって複雑な現実です。惹かれること自体は罪ではありませんが、行動することは罪です。その人が選んで同性に惹かれるわけではないとしても、それにどう反応するかはその人の選びです。愛と理解をもって、教会は、同性愛者の兄弟姉妹を含む、全ての神の子供たちに手を差し伸べます。
モルモン教で、同性にひかれることに苦しみながらも、その欲求を行動にしない人々は会員と親交をもち、イエス・キリストの福音の活動を楽しんでいます。このように、神の戒めを順守し従って生活する人々にとって、同性に惹かれながらも忠実な末日聖徒であることは可能なのです。同性に惹かれることを苦しんでいる人々に向け、モルモン教は次のようにメッセージを述べました。
あなた方は、神の息子または娘です。私たちの心は、温かく愛情を込めてみなさんに手を差し伸べます。現在、同性に惹かれていても、この世で幸福を得て、道徳的に清く過ごし、教会で意義ある人生を果たし、教会の仲間たちと完全な親交を続けることができます。
この論争には、多くの不明瞭な点と意見の相違が存在してはいますが、一つ明確なことがあります。それは、両側に立つ者たちにとって、各々の観点に対する共通点、理解、思いやりを見つけるため、一致協力する時が来たことです。十二使徒評議会(大管長会とともに、モルモン教の管理組織)の会員である、M・ラッセル・バラード長老は次のように言いました。
ときには、私たちはあなた方と意見が一致しないこともあるでしょう。しかし、お互いが不愉快な思いにならずに行うことができるはずです。私たちの地域において、厚意、尊敬、思いやりの雰囲気で協力しなければなりませんし、できるはずです。
同性愛、同性婚、伝統的な家族の価値を支持することのような、複雑な論争に取り組むことは何よりも重要です。イエス・キリストの教会は次のように言っています。
広報活動の見解からすると、教会が同性愛的な行動を造作なく受け入れた方が楽ではあるでしょう。しかし私たちはそれをすることはできません。なぜなら、それは神の律法であって、私たちは変更することはできないからです。道徳的に何が正しいかという、教会の見解を変更することはありません。しかし変わりつつあること、変わる必要のあることは、教会会員が家族の中や、他の教会会員の間で、または他の場所で、同性愛者に出会ったときに、繊細に思いやり深く対応できるよう助けることです。
「律法は神により定義される」
またモルモン教は同性愛と結婚に関する見解を明確にしています。
性的行為は、結婚した男女の間でのみ起こるべきです。しかしながら、決してそれが不親切に接する言い訳になるべきではありません。…教会は、同性に惹かれることと行動との間に違いがあることを認めます。そのような同性に対する愛情と気持ちを持つのは、本質的に罪ではなく、同性愛の行動に関与することは、聖典に基づく教義的原則と矛盾するものです。男女の間の結婚は、神の子供たちの永遠の行く末のため、創造主の計画に不可欠なものなのです。
イエス・キリストの十二使徒、ダリン・H・オークス長老は次のように言いました。
末日聖徒(モルモン教の会員)にとって、神の戒めは、神がその子供たちのために立てられた計画、つまり偉大な救いの計画を基盤としており、またその計画を不可分の関係にあります。この計画は、時に「偉大な幸福の計画」(アルマ42:8)と呼ばれていて、神の子であるわたしたちの出自や行く末について、つまり、わたしたちがどこから来て、なぜここにいるのか、そしてどこに行こうとしているのか、ということについて説明しています。また救いの計画は、天地創造の目的、死すべき世にいる状態について説明し、その中で、神の戒め、救い主の必要性、そしてこの世と永遠の世にわたる家族の重大な役割についても触れています。…
神がその子供たちのために立てられた計画を知っている末日聖徒には、結婚や家族に対する独特な見方が生まれます。わたしたちが家族中心の教会として知られていることは、実に適切なことです。わたしたちの神学はまず天の両親から始まりますし、わたしたちの最大の望みは完全なる永遠の昇栄に到達することであって、それが家族という関係の中でのみ可能になることも、わたしたちは知っています。わたしたちはまた、男女間での結婚が神の計画を完成させるためにはどうしても必要であることも知っています。こうした結婚関係だけが、地上における誕生の場となり、家族を永遠の命へと備えさせるために承認された機会となります。わたしたちは、結婚をし、子供をもうけ育てることは神の計画の一部であると考え、そうしたことを行う機会が与えられている人々にとっては神聖な義務であると考えています。わたしたちは、地上や天における究極の宝とはわたしたちの子供たちであり、わたしたちの子孫であると信じています。
モルモン教における、道徳的行動の標準は常に、結婚前の完全な性的自制と結婚後の完全な貞節でありますが、これからも変わることはありません。結婚とは、男性と女性の間のものです。イエス・キリストの十二使徒であるボイド・K・パッカー長老は、次のように説明しました。
少数ですが、男性が男性に対し、または女性が女性に対して、抵抗し難い誘惑を感じる人がいます。聖文は次のような人々を罪に定めています。「…自分のからだを互いにはずかしめて、…男に対して恥ずべきことをな」す男性(ローマ1:24,27)、そして「その自然の関係を不自然なものに代え」る女性です(ローマ1:26)。…
自然に逆らう行為を法律で認めさせようと、議会に圧力がかけられますが、神の律法で禁じられていることを認めることはできません(レビ18:11;コリント6:9参照)。
「互いに愛し合いなさい」
救い主がどの戒めが一番重要かたずねられたときに、「神を愛すること」とお答えになりました。イエスは、二番目に重要な戒めとして「互いに愛し合うこと」と言われました。救い主がなされ教えられた全てのことは、全ての人に愛、優しさ、思いやりを示すことでした。救い主のたとえ話の一つ、よいサマリヤ人については、私たちがどのようにお互いに接するべきか、力強く教えています。よいサマリヤ人のたとえ話は、ユダヤ人とサマリヤ人が仲が良いので力強いメッセージとして感じるのではなく、この二組は仲が良くなかったので力強いのです。サマリヤ人はイスラエル人の宗教を捨てたので、ユダヤ人はサマリヤ人を嫌っていました。ユダヤ人はサマリヤ人がエルサレムに神殿を再建する助けをさせなかったので、サマリヤ人はユダヤ人に対して怒り、恨みを抱いていました。両者は怒り恨みを持っていました。
これが、よいサマリヤ人のたとえ話の背景です。伝えられているところによれば、ある人が強盗に襲われ、傷を負わせ、半殺しにされました。ひとりの祭司がその道を来ましたが、通り過ぎてしまいました。宗教心のあるレビ人も同様でした。しかし、サマリヤ人がその人を見たとき、「気の毒に思い」ました。サマリヤ人は傷にほうたいをまき、その見ず知らずの人を自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行き、そのユダヤ人を介抱しました。翌日宿屋の主人に、そのサマリヤ人は怪我をしたユダヤ人にかかる費用を渡し、「費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います」と言いました。(ルカ10:25-37参照)
文化的にも宗教的にも非常に異なる観点を持つ二組の人々である、よいサマリヤ人のたとえ話は、同性婚の論争の両側にいる私たちがどのような態度をとるべきかについて、構想を提供してくれます。愛、親切、思いやりを持った態度をとるべきです。実に、イエス・キリストの十二使徒である、クエンティン・L・クック長老は次のように言いました。
この世の多くの人は、互いに…怒ったりしています。わたしたちはそのような感情を理解する一方で、礼儀正しく話し、敬意をもって交わる必要があります。意見の相違があるときは特にそうです。…意見の違いをどう扱うかは、わたしたちが何者であるか、救い主の真の弟子であるかどうかのほんとうの尺度です。意見が違うのは差し支えありませんが、不愉快な人になるのはよくありません。
イエス・キリストの十二使徒である、パッカー長老は次のように言いました。
拒絶されていると感じる人がいますが、それは違います。わたしたちは人を拒絶しません。拒絶するのは、不道徳な行いだけです。神の息子、娘である皆さんを、拒むことはできません。皆さんを拒絶しないのは、愛しているからです。
全ての人の目標は、お互いの権利と信念を尊重することにより、お互いが平和に共存することであるべきです。特に、意見が合わない人々を含めて言えることです。
自制はこの世での人生の試しである
ある人は、「なぜ性的行動に制約があるのだろうか?もしある人が同性に惹かれるのなら、そのような感情を表現したところでどんな損害があるだろうか?」モルモン教の大管長、トーマス・S・モンソン大管長は、簡潔でありながら核心をつく説明をされました。「私たちは、人間として経験を踏んでいる霊の存在なのです。」
これはどういう意味でしょうか?私たちは、文字通り天の御父の霊の息子、娘です。天父は、私たちを試されるためにこの地上に送られました。これが、オークス長老が説明された幸福の計画です。死すべき体を有する間の試しとは、全ての事において、私たちが救い主イエス・キリストに従うかどうか、何が起ころうと神の戒めを守るかどうか、試されます。どのような誘惑にあおうと、人が私たちに何をしようと、私たちの欲望、衝動、望みが何であろうと、私たちは救い主に従い戒めを守りますか?私たちは自分の霊を肉体に従わせられますか?または私たちの霊を肉欲の、自己的な「生まれながらの」欲求に従わせますか?もし私たちが、救い主のようになりたいのであれば、人間としての経験を踏んでいる霊の存在であることを忘れるべきではありません。このように私たちは、私たちの霊の父親である、天父により定められた範囲内で、与えられた肉体を抑制することを学んでいる霊の存在なのです。真の幸福は、これ以外からは生じ得ません。
自分の目を動かすことしかできない、生まれたばかりの子供の時から、私たちの肉体を征服する旅が始まります。私は、最初の子供が生まれたときに、彼が自分の体を自分で習得して、動かせるようになるのを見守ったときのことを覚えています。彼は、やっと自分の手を握り締めることができたときに、とても喜びました。彼は両手をつなげられるように、まず片手に集中し、そしてもう片方と順序立てて取り組んでいる様子を見守りました。やっとできたときに、彼はとても誇らしげでした!そして次に、彼は、自分の意思で腕を動かせるようになるまで、この動きを習得できるようがんばりました。彼がその小さな体をコントロールするためがんばっている時に見えた、子供の目の中の純粋な決意を決して忘れることはないでしょう。私には、彼の思考過程が見えるようでした。「この手をここに持ってきて。よし。さて、こっちの手も、もう少し…もうちょっと…できた!」と聞こえてくるようでした。
私たちの体の動きをコントロールすることを学ぶのは、始まりに過ぎません。次に腸をコントロールすることを学び、微細運動能力を完全なものにします。一連の行為は続きます。最終的な目標は、この世の方法ではなく、主の方法に従って私たちの体を習得することです。これは、私たちの要望、欲求、および情熱は、主が定められた範囲内にとどめることを意味しています。
イエス・キリストの十二使徒である、ラッセル・M・ネルソン長老は、次のように教えています。
一つの重要な霊的特質は、自制、すなわち理性で欲求を抑える強さです。自制は強い良心を築きます。そして、あなたの良心は、困難や誘惑、試練の状況にあってあなたがどのように道徳的対応をするかを決めます。断食は、あなたの霊が肉体的な欲求を抑える力を増すのに助けとなります。また断食は天の助けを得る機会を増やします。それが祈りを強くするからです。なぜ自制が必要なのでしょうか。神は人類が永続するために必須の、食物と愛を欲する強い欲求をわたしたちの内に植え付けられました。わたしたちは自分の欲求を神の律法の範囲内で制御するとき、長寿と深い愛、そして無上の喜びを享受することができるのです。
ですから、神の幸福の計画から逸脱する誘惑のほとんどが、神から与えられたこの基本的な欲求を誤用することから生じるというのは、うなずけます。
私たちは、抑制しなければなりません。そのため、天の御父の救いの計画に無限の贖いが含まれています。イエスキリストの贖いを通して、私たちは、弱点や誘惑を乗り越えるための助け、強さおよび能力を見つけられ、私たちの望み、欲求および情熱を抑制する能力を見つけられるのです。私たちは、この死すべき肉体を抑制することを学んでいる霊の存在なのです。
あなたの真のアイデンティティーは何か?
同性愛が、特に同性愛で苦しんでいる人々にとって、ここまでデリケートな問題である理由の一つとして、それが彼らが誰であるかを示す一部だからです。性的指向は、その人のアイデンティティの中心的な一部なのです。しかし、それが唯一のものではなく、最も重要なものでもありません。私たちの最も重要なアイデンティティーは、愛ある天父の息子、娘だということです。イエス・キリストの十二使徒である、ジェフリー・R・ホランド長老は、同性愛に苦しむモルモン教の会員に、次のように話しました。
同性に引かれるか異性に引かれるかに基づいて自分はどういう人間かを決めつけてしまうのは、決して得策ではありません。それだけがあなたを形作る特質ではないのですから、必要以上に目を向けるのをやめましょう。あなたは何よりもまず神の息子であって、神はあなたを愛しておられるのです。
もし私たちのアイデンティティーが、愛ある天父から受ける神聖な可能性である、私たちの霊的な地位から始まるとしたら、私たちの他のアイデンティティーと行動もそれに応じて、優先順位を決めることができます。しかし、そのため私たちの人生が楽なものになるわけではありません。ホランド長老は次のように教えました。
様々な理由から、すべての人にすぐに結婚して子供を持つ機会があるわけではありません。結婚を申し込まれるという経験をしない人もいるでしょう。結婚しても子供を授からない人もいるでしょう。あるいは、今は異性に関心が持てないという人もいるかもしれません。理由がどうであれ、清く忠実であれば、やがて神の最も豊かな祝福がすべての神の子供たちに与えられます。信仰を働かせること、個人的に努力すること、そして贖いの力に頼ることを通して、この世にいる間に同性に引かれる傾向を克服して結婚する人もいるでしょう。しかし、そうでない人は、この世で同性に引かれることから逃れられないかもしれません。
同じ教会の会員、家族、友人としてわたしたちは、同性に引かれる人には感情の表し方に独特の制限があることを認識する必要があります。現実に同性に引かれても、絶対にそのような気持ちを行動に表してはならないのです。肉体的な欲求を満たしたいという願望があるからといって、不道徳な行いが許されるわけではありません。その感情がどんなに強くても、人からふさわしい行動を選ぶ自由を奪うほど強力では決してないからです。
明確に伝えたいのは、厄介な問題とはいえ、引かれる気持ちがあるというだけでふさわしさが失われることはないということです。誘惑に負けて行動に移さないかぎり、あなたは戒めに背いていないのです。
福音は希望のメッセージである
イエス・キリストの福音は、希望のメッセージです。救い主への希望と私たちへの主の愛に対する希望です。神の愛と贖いによる希望によって、全ての事は終わりには正当化されるでしょう。全ての問題に対する答えも同じです。救い主と主の教えに立ち返りましょう。主は聖霊を私たちに送られ、必要な時に助けてくださるでしょう。ホランド長老は次のように言いました。
次に、ガーデニングから学べる原則について考えましょう。良い種さえまけば、草取りの心配はあまりしなくて済むと言った人がいます。同じように、霊的な栄養で生活を満たしている人は比較的容易に自分の欲求を律することができるようになります。つまり、家庭で建設的な環境を作って御霊が豊かに注がれるようにすべきだということです。建設的な環境とは、個人的にも公にも絶えず礼拝し、祈り、断食し、聖文を研究し、奉仕することや、霊を高める会話、音楽、書籍、その他のメディアをいつも身の回りに置くことが含まれます。
環境に関するこのような考え方は、教会での経験にも当てはまります。同性に引かれる人の中には、自分の中にぬぐい切れない恐れを抱えているために、だれにもそのような意図がなくても、教会で傷つけられたと感じる人がいます。一方、自分と異なる人を仲間外れにしてしまう教会員もいます。わたしたちの言動のせいで、教会員としての利益を完全に享受できなくなった人がいたら、わたしたちはその人に対して、そして主に対して、義務を怠ったことになります。どのような会員も受け入れ、奉仕し愛し合うことで互いに強め合うとき、教会ももっと強められます。
私たちが、救い主および主の愛と教えに焦点をあてるときに、全ての事は正しい場所に落ち着きます。聖書には、古代の使途ペテロについての話があります。使徒たちは、海の上の舟にいました。するとイエス・キリストが、水の上を歩いて彼らに近づいて来られました。ペテロが救い主に、「主よ、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」と言いました。すると主は、「おいでなさい」と言われました。ペテロは舟からおり、水の上を歩きました。しかしペテロは救い主への焦点を失い、海の波に気がつき始めると、彼は沈み出しました。この話の教訓は、複雑ではありません。私たちは決して、救い主から焦点を見失ってはいけません。もし私たちが望むのであれば、主は私たちの人生において奇跡を起こすことができます(マタイ14:25-32)。これは、私たちの問題が何であろうと、どんな病気であろうと同じです。この聖書の話について、ホランド長老は次のように言いました。
わたしたちが神の愛と、嵐を静められる救い主の力を証するのは、わたしが人生の嵐を知らないからではなく、深く、直接的に知っているからです。救い主が水の上を歩まれたあの聖書の物語を思い出すと同時に、不慣れで若く恐れを抱く人々ともともに歩まれたことも考えてください。その不吉な波と闘ってこられた御方だけが海に向かって言われたように、わたしたちにも「静まれ」と言うことがおできになるのです。そうした逆境を全身で受け止められた御方であられるからこそ、「勇気を出しなさい」とおっしゃれるのです。今の世の中で積極的な思考法はぜひとも必要です。しかし、この忠告の言葉は積極的な思考法を提唱する単なる激励ではありません。人生の試練は非常に深刻で、わたしたちが浅はかなために試練に遭っているわけではないことを、キリストはほかのだれよりも御存知なのです。主は気休めを避けるにとどまらず、不信仰を叱責し、悲観主義をお嘆きになります。信じることを望んでおられるのです。
希望は、私たちが人生を乗り切ろうとする時に、力強い協力者になります。末日聖徒イエス・キリスト教会は、同性に惹かれることに関する教会の姿勢を説明する、モルモンと同性愛者と呼ばれるウェブサイトを開始しました。この同性に惹かれることに取り組んでいる人々をはじめ、彼らの最愛の人々からの希望の話しを聞くことができます。ある人が次のように言いました。
希望は私たちを持ち上げ、前進させ、物事は良くなる、たとえ現在、物事は良くなくてもいつか良くなることができ、現在物事が良ければ、さらに良くなると信じることを心待ちにさせます。しかし最終的に、この世よりも優れた世界があり、そこでは全ての間違いが正されるという神の約束の中に、私たちは希望を探し求めることができますし、探し求めるべきです。
別の人は次のように言いました。
しばしば、人々は問題に取り組む必要がなければいいと思ったり、もはや問題が解決されたらいいのに、いっそなくなってしまえばいいのになどと思うものです。私は、友情に希望を託したり、神殿に行くことに希望を、または御霊を感じることに希望を託す人々を見てきましたが、彼らはその方向にただ進み、神に向かって進み、もう少し希望のある方へ進みます。そこが成功する人々が目指す場所です。
ホランド長老は、若い家族を連れ国中を旅している途中に、高速道路上で車が故障してしまった、若い父親の話をしました。ホランド長老の、自分自身であるその若い父親へのメッセージは、私たち全てへのメッセージでもあります。
「あきらめるな。やめちゃいけない。歩くんだ。頑張って。助けも得られるし幸せにもなれる。30年そうだったし、これからもそうだ。顔を上げて。必ず良くなる。神を信頼して、祝福が来ることを信じるんだ。」
このメッセージは、私たちの試練が何であろうと、私たち全てに当てはまります。もし私たちが救い主イエス・キリストに焦点を合わせていれば、最終的には希望があります。そして私たちが救い主の教えを取り入れて、愛、思いやりや偽りのない親切をもって、今日の緊張した問題に取り組むのであれば、たとえやり方に、意見が合わないことがあっても、私たちは協力し合い、世界を自分たちのためにより良い場所にすることができるでしょう。
この記事はLisa M.によって書かれ、ldsblogs.comに投稿されました。