わたしたち家族は、心待ちにしているイベントがふたつあります。一つは娘の伝道の召しの到着と、もう一つはわたしたちの赤ちゃんの到着です。ここ1〜2週間のうちに、どちらが早く来るか競争のような感じです。このような劇的なイベントは、この先のわたしたちの人生でずっとついてまわるものです。娘の伝道への召しは、彼女が次の18ヶ月をどこで奉仕するのか、そしていつその奉仕を始めるのかを決定します。自分自身、伝道を経験した者として、彼女がどこで奉仕し、誰に会うのかが、彼女の残りの人生に大きく影響を及ぼすことを知っています。赤ちゃんの到着もまた、わたしたちに大きな影響を与えるでしょう。赤ちゃんが生まれてからは、何一つ以前と同じではありません。娘の件は、召しが早く到着するためにわたしたちが出来ることはなにもありません。妊娠については、いくつかの選択肢はあるものの、待つことがわたしと赤ちゃんにとって最善なのは確かです。娘とわたしはふたりとも、始まりを待っています。そのおかげで、わたしは忍耐について考える特別な機会を得ました。
1.見解
忍耐を持って待つ日々もいつかは過ぎ去っていきます。全知全能の、始まりから終わりを全てご存知である宇宙の創造主が、わたしよりも最善な「タイミング」を知っていることも分かっています。それは疑いようのない事実です。数週間はとても短い期間です。とても短いので、たとえ神が全てを知っているとわかっていても、わたしはカレンダーをみて日々のことを考え、なにが最善かを突き止めようと四苦八苦します。わたしは計画を立てたいのです。わたしは自分自身を備えると同時に、娘が自分を備える助けをしたいと思っています。洗濯物を、洗濯物が出る前にすることはできません。娘が、どこに行くかもわからないまま伝道に必要な服を選ぶことはできません。わたしたちがなにか大きな決意をするとき、わたしたちは戸惑うものです。それは、わたしたちの代わりになるかもしれない人に関する決意をしているかもしれないということを知っているからです。この状況での忍耐は、物事を備えるのではなく、大切な贈り物である自分自身を備えることを強いることになります。わたしにとっては、忍耐はたった一度神が全知全能であることを認めれば良いというものではなく、毎日、時には一瞬一瞬、わたし自身に神のタイミングが正しいタイミングであるということを思い起こさせてくれるものです。
2.喜び
明らかに、わたしは娘の伝道の召しがいつ来るか、娘がどこに奉仕に行くか、そしていつ出発するのかを計画することはできません。それでもわたしは計画を立てます。わたしは楽しく計画します。子供たちにも、彼らが若い時から、待つときの最善の方法は楽しむことだと教えます。わたしたち両方にとって、それは楽しみを心待ちにして一日を過ごすことを意味し、そうすることで、たとえその日待ち望んでいたことが起きなくても、その一日が意味のある、喜びに満ちたものとなります。もしわたしが、その素晴らしいイベントまで頑張れるかわからないと感じるとき、わたしはとても気まずい気持ちになります。娘は、次の数週間の計画をたて、そのほとんどをきちんとこなすことができますが、わたしにその才能はありません。わたしの子供たちは、わたしの出産予定日の前日に学校で演劇の発表があります。もしその劇を見られることができればラッキー、もしそうでないなら、わたしはかわいい赤ちゃんを胸に抱いていることになるので、それもラッキー!どちらでもラッキーです。わたしは、他のことについて話すことができます。赤ちゃんがまだ生まれないかどうかということではなく。起こっていないことにではなく、今起こっていることにエネルギーを集中させるのです。わたしたちが楽しんでいると、時間はより早く流れます。神は今、わたしたちに喜びを感じてほしいのです。望んでいる何かが起きるまで喜ぶことを拒否するのは、ある意味、神のタイミングよりも自分のタイミングを大切にしているということになるとわたしは思います。
3.働く
わたしの義理の母が、待つ間に何かを達成する喜びを教えてくれました。彼女が抗がん剤治療を受けているとき、彼女はまだ何かできると感じたかったので、かぎ針編みで赤ちゃんのブランケットやお皿用のタオルを編み始めました。それらは小さくて簡単なものでしたが、彼女の限られたエネルギーでも終わらせることが出来ました。それらが積み上るのを見て、それらを他の人にあげることができると知ることは、彼女に喜びをもたらしました。彼女は、このような長くつらい期間にも、人々に与えることを決意していたのです。わたしが双子を産んだとき、彼女はこの期間で作った赤ちゃんブランケットをふたつくれました。彼女の忍耐力と思いやり、そして待っている時間と治療している時間を使う意思は、わたしにとって美しい遺産です。わたしはかぎ針編みはしないかもしれませんが、それでも何かを達成するというのは素晴らしい気持ちです。たとえそれが、わたしたちが待っている間にできる、とてもシンプルなものでも。
4.今を愛する
将来のことを考えすぎていると感じる時は、自分自身に、神の愛を感じる機会を、今、逃しているということを思い出すようにしています。神はわたしを愛する事を待機しません。それなら、わたしがその愛を感じるのを待つ必要がどこにあるでしょうか?わたしが先のことに集中していると、今神の慈しみを感じることを逃しているのではないでしょうか?わたしは、一緒にいる人々との時間も逃しています。わたしが行動できるのは、わたしが存在する場所でだけです。「今」は二度と来ません。わたしは、そこにたどり着くまで、未来のだれかを愛することはできないのです。誰かを愛する準備をするのに一番いい方法は、今、自分がいる場所で、愛することです。あなたと一緒にいるひとびとを愛することは、神があなたにしてほしいと思っていることをするための備えに一番いい方法です。待ち望むべきことは、いつでもあります。娘もわたしも、冒険を始めたばかりなのです。先にはまだ何マイルもの忍耐が待っているのに、いつになったら「愛することを待つ」ことをやめられるでしょうか?いつになったら、「充分待った」ことになるのでしょうか?神は、わたしたちが進歩するのを止めるためになにかを引き延ばしたりはしません。そう感じることはあるかもしれませんが、そんなことはあり得ません。わたしたちは、進歩するためにたった今必要なものを全て持っています。愛する機会もそうです。
すぐに、わたしたちは報告すべき嬉しいニュースを手にするでしょう。そのときには、もう今までのように「いつかはまだわからないんだけど」と言って質問に答える必要も、会話を始めるのに身構えて警告する必要もなくなるでしょう。そして同時に、わたしたちは忍耐の中で生き、信仰、喜び、働きと愛を感じていくのです。
写真は全てLDS Blogsより
この記事はBritt Kellyによって書かれ、ldsblogs.comに投稿されました。