わたしはアスリートではありませんが、オリンピックを観るのは大好きです。アスリートではないどころか、わたしはアマチュアスポーツ選手でさえありません。わたしがスポーツに触れるのは、数年に一度オリンピックを通してのみです。 だからわたしは面倒なルールについては特に気にしません。ただ、そのスポーツの目的であろうと思われることを推定して、アスリートたちが魔法のように競技をするのを観ることが好きです。

オリンピックを観ると、わたしが永遠の命に向けて走っているレースを思い浮かべます。アスリートたちが目標を達成しようとする完全な決意と粘り強さは、わたしのホコリをかぶった目標からホコリを払ってくれます。そして進歩を確認してさらに遠くへ、より早く、より長く、そのペースが自分のペースになるまで走ることを新たに決意させてくれます。

 

平和の道

わたしはマイケル・フェルプスの大ファンです。彼がアスリートの頂点に達するためにはらった犠牲を理解しているからではなく、彼のやる気と決意を尊敬するからです。彼の復帰に関する物語はわたしに良い刺激を与えてくれます。  

誰でも、ある日は頂点に達した気持ちになり、またある日はどん底にいる気分を感じるものです。しかし、マイケルはもう一度チャンピオンになることを選びました。彼は手に負えない状況に陥るよりも決意とリハビリ、そして努力を選びました。彼は、心に感じる平安を考えれば、オリンピックと同等のものはないと話しました。

マイケル・フェルプスが信仰を持っているかなどまったく知りませんが、心の平安についての彼のコメントは、エレミヤ記29章11-14節を思い出させました。これはわたしの一番好きな聖句のひとつで、心に平和を感じたいときに読む聖句です。主の命令で、エレミヤはバビロンの70年間の囚われの状態を預言しました。イスラエルはこれから囚われの身になり束縛されることを知っていました。それで主は贖いを約束されました。

「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災いを与えようと言うのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈りを聞く。」

上の聖句はよく引用されますが、わたしは14節が大好きです。「あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる。わたしはあなたがたの繁栄を回復し、あなたがたを万国から、すべてわたしがあなたがたを追いやったところから集め、かつ、わたしがあなたがたを捕われ離れさせたそのもとのところに、あなたがたを導き帰ろうと主は言われる。

わたしにはこの贖いが理解できます。この時のイスラエルの回復と、わたしのための贖いを感じることができます。自分の選びのために、わたしの心の一部がばらばらになったこともあります。自分の選びのために、囚われの身になったこともあります。自分の選びのために、遠くへ離れたこともあります。しかし、主はどこでも御自分を見出せると約束しました。わたしたちに見つけて欲しいのです。主はわたしの嘆きを聞き、わたしが探せばわたしの元へ走ってきてくれます。彼はわたしの壊れ、依存したパーツをすべて集め癒やし、もう一度わたしを主の元へ連れて行きます。それはわたしの受け継ぎの地であり、わたしの聖なるエルサレムです。

突然、このレースを自分の持てる限りの力で走ろうとするわたしの個人的な犠牲や、完全な従順への努力は重要でないように思われます。主はわたしの最善の努力と必要とされているレベルのギャップをうめてくださいます。そして、贖いと聖餐と聖約を与えてくれます。そして驚くべきことに、「その後、キリストは栄光の冠を受け、その力の御座についてとこしえに治められる」(教義と聖約76章108節)と約束されました。

 

人がついてくる良い刺激になる

競泳選手のシモーネ・マニュエルは、レースで金メダルを獲得し、黒人としてアメリカ人初の個人競技メダリストになりました。彼女は神をたたえ、栄光を神に捧げてこういいました。「このメダルはわたしだけのものではありません。このメダルは、わたしの後に続く『自分にはできない』と思う すべての人のものです。わたしはただ、彼らにも『できる』という刺激になりたいのです。」

なんて素晴らしい態度でしょうか!これこそチャンピオンの心意気です。もしあなたがわたしの感じている喜びと満足感を感じたいなら、わたしはその道を知っています。あなたがたどるべき道を、わたしは知っているのです。それから、あなたはわたしの勝利を経験することができ、わたしはあなたの勝利に喜びを得るでしょう、と言わんばかりです。

わたしはシモーネに拍手を送りましたが、同時に現実的に考えてわたしが彼女のスポーツの模範にそのまま従う準備ができていないことを知っていました。それでも、彼女は確証のないことでもやり遂げることは可能だと約束しました。わたしも、今までできると思いもしなかったこともできるのです。彼女は、わたしが不安や恐れ、またはそれ以外のあらゆる言い訳によってしまいこんだことを取り出してきて、再び挑戦するための刺激を与えてくれました。このような刺激を与えてくれる人は他にもいます。

20年前に、わたしはハワード・W・ハンターのこの言葉を聖典に書きました。「今尋ねられるべき質問はこうです。わたしたちは成功することができますか?わたしたちは抵抗し、勝者の冠をかぶることができるでしょうか?サタンはイエスに負けたかもしれませんが、彼はまだわたしたちに負けたとは思っていません。サタンは誘惑し、恐れさせ、わたしたちが忠誠を捨てるよう仕向け続けるでしょう。この戦いにおいて、キリストが神としてでなく、人としてこの戦いに勝利を得た事実から強さを得なければなりません。」

神殿で教えるイエスに群がる人々

神殿の中で教えるイエス (写真はlds.orgより)

 

大体の人は、イエス・キリストの神としての側面に集中します。もちろん、それはわたしたちの救いにとって必要不可欠な面です。でも、わたしは救い主が死すべき体を通して得た経験についての聖句に、より興味がわきます。たとえば、こんな聖句があります。

「多くの人が驚いたように、彼の顔つきはほかのだれよりも損なわれて、また彼の姿も、人の子らのようではなかった。」(第三ニーファイ20章44節

「彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの観るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。」

「そして神の御子は、あらゆる苦痛と苦難と試練を受けられる。これは、神の御子は御自分の民の苦痛と病を身に受けられるという御言葉が成就するためである。  また神の御子は、御自分の民を束縛している死の縄目を解くために、御自身に死を受けられる。また神の御子は、肉において御自分の心が憐れみで満たされるように、また御自分の民を彼らの弱さに応じてどのように救うかを肉において知ることができるように、彼らの弱さを御自分に受けられる。」(アルマ書7章11-12節

贖いによって、イエスは罪と痛み、病、そして悲しみに苦しみました。しかし、これらの聖句と他の聖句は、人生を通しての身体的な苦難についてもまた述べているように思えます。彼は、変貌の山でのみサタンに会ったわけではありません。死すべき体を持つ人として、彼は人生のあいだに遭うすべての誘惑に打ち勝ったのです。だからわたしは、主が愛と理解を込めて次のように手招きをするときに主を信頼することができます。「それから、みんなの者にいわれた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」

自信を持つ

先ほど話したように、わたしはオリンピックを競技のスキルの批評などより、むしろわたしが感じることに重点をおいて見ます。それはわたしが競技的なスキルには共感できないものの、そのスキルがもたらす全体的なことが目に映るからです。例えば競泳は、技術をよく垣間見ることが見えるとても厳しいスポーツです。わたしはただ、レースを引っ張るのが誰かを見て、ゴールやその時のリアクション、破られた記録に一喜一憂します。

でも体操は違います。10センチ四方の平均台の上でくるくる回ったりひねったりすることより無防備なことは、わたしには思いつきません。どんな小さなよろめきも見られます。ソファにすわってポテトチップスを食べている運動選手でない人だって、体操選手の平均台でのミスステップには気が付きます。もし着陸に失敗したら?わたしだって、それが良くないことだとわかります。

決勝戦まで観ている間に、個人女子のオールラウンドな選手の二人がわたしを驚かせました。技術のある達人がオリンピックの舞台で競技しているのです。それなのにわたしは、五人のうち三人がバランス競技をするのを見てなんとも不安な、落ち着かない気分になりました。最終的に、この二人の自信にあふれた体操選手は金メダルと銀メダルをとりました。

彼女の素晴らしい銀メダルに値する床競技のあと、アリー・レイズマンのリアクションは、彼女が自分自身の演技に満足していることを示しました。彼女は、先に演技した競技者たちよりもうまく演技したことを謝ったりはしませんでした。それどころか、会場に集った観客やテレビの前の観客を気にしている様子もみせませんでした。彼女はオリンピックのプレッシャーを理解していました。アリーは自分の心のなかに手を伸ばし、彼女のできる一番の床競技を見せたのです。彼女の曲の最後の音が薄れていく中で、彼女は満足に涙を浮かべました。彼女はオリンピックのメダルという目標を、たった今達成したことを知っていたのです。

それから、コメンテーターたちはシモーネ・バイルズが史上最高の体操選手に成長したと言い続けてきました。史上最高です。わたしは驚きました。その莫大なプレッシャーを受けての演技は大変なものに違いありません。史上最高ですって。そして彼女自身が完全にわたしを驚かせました。すごい!すごい!とわたしはテレビに向かって叫び続けました。

シモーネは自信をもって宙に舞いました。彼女は自信をもって平均台のうえでくるくると回りました。彼女はキラキラしたアイシャドウさえ自信をもってつけていました。そして彼女は、最善を尽くしました。アメリカチームに貢献できてよかったとだけ言って称賛を受け取りました。

そして、これはわたしの一番好きなところですが、賛辞を受けながらも他のチャンピオンたちと比べられて、シモーネ・バイルズはこういいました。「わたしは次のウサイン・ボルトでもマイケル・フェルプスでもありません。わたしは最初のシモーネ・バイルズです。」とても素晴らしいと思いました!

「だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いがともなっているのである。」

「そこで、子たちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、彼が現れるときに、確信を持ち、その来臨に際して、みまえに恥じ入ることがないためである。」

ここまで自信を得るのは小さな努力の積み重ねによるものです。戒めを守るのはその大切な一歩です。より良く戒めを守るにはどうしたらいいか、主との関係に心を向けるにはどうすればいいかを教えてくれる聖霊の助けを得ることができるのです。わたしたちがその声を聞き、行動すれば、わたしたちはさらに自信を得ることができます。なぜならわたしたちは神がわたしたちとともにいることを知ることができるからです。

この聖句はよくわたしの頭に浮かびます。これはわたしの伝道地であるスコットランド・エディンバラ伝道部のテーマに含まれています。

「またあなたの心が、すべての人に対して、また信仰の家族に対して、慈愛で満たされるようにしなさい。絶えず徳であなたの思いを飾るようにしなさい。そうするときに、神の前においてあなたの自信は増し、神権の教義は天からの露のようにあなたの心に滴たるであろう。  聖霊は常にあなたの伴侶となり、あなたの笏は義と真理の不変の笏となるであろう。そして、あなたの主権は永遠の主権となり、それは強いられることなく、とこしえにいつまでも、あなたに流れ込むことであろう。」(教義と聖約121章45-46節

 

わたしたちが知っているかに関わらず、わたしたちはレースを走っているのです。個人的には、わたしのスピードは一定ではありません。わたしの気持ちや心の平安も一定ではありません。だからわたしはこれらのチャンピオンたちを見て、自分もチャンピオンであるということを思い出すのです。過去も現在も、わたしがこのレースを走ることを刺激してくれる人々に感謝しています。

 

自分の人生のレースについてどう思いますか?

「いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走り抜こうではないか。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。」

 

 

この記事はデリサ・ハーグローブによって書かれ、LDSblogs.comに掲載されたものです。