参入したことのあるほぼすべての末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン書があるので誤ってモルモン教と呼ばれる)の神殿の祭壇には、きれいな手編みのレースのカバーがかけられていました。きっとそれは、高い技術を持つアイルランドやオランダ、ウェールズ、スカンジナビアといった地域の血を引く聖徒たちが、教会初期に建てられた神殿を繊細な作品で飾っていたころの開拓者たちの風習を引き継いだものだと思っていました。ある日、息子の死というものすごい衝撃にわたしの心は引き裂かれ、祭壇のレースにより深い意味を見いだすようになりました。

神殿の祭壇のレースを縫う夫人

ある晩、夫のランドルとわたしは悲しみにうちひしがれ、衝撃と悲痛の重みにつぶされそうになりながら神殿へ参入しました。参入の目的を一般的に言えば、わたしたちの信仰において最高の儀式をすることでした。それは、夫が身代わりとなり、18歳でこの世を去った息子の死後の「エンダウメント」という、福音に忠実に生きることを条件にして得られるこの上ない祝福と約束を授与する儀式です。

そのセッションで、わたしたち夫婦は「証人」というその場に集った参加者すべてを代表して、参入者が席につき説明を受ける部屋の主要点である祭壇に向かい、ひざまずく役目が与えられました。まるで手足を切断されたばかりのように感じていたので、席から立ち、祭壇まで行き、ひざまずく力はほとんどありませんでしたが、ない力を振り絞って手編みのレースがかけられた神聖な祭壇にひざまずきました。

下を向き、静かに涙を流したことを記憶しています。レースの合間に落ちた涙のあとが今でも脳裏に浮かびます。そして御霊がわたしに「あなたが感じている苦しみは神が御子を犠牲にしたときのものと似ています」とささやく声も今でも聞こえます。心が締め付けられました。「そしてこれは聖徒たちの集まりです」これというのはわたしが魂の血を流し濡らしていたレースのカバーのことを指します。その夜わたしは、まるで初めて目にしたかのようにその手編みのレースに焦点を当てていました。そしてわたしたちの人生が破裂したその時から後の数年に参入したそれぞれの神殿でも、わたしはあの祭壇のカバーの意味に熱烈に思いを寄せてきました。

祭壇のレースから得た啓示

今日わたしがあの柔らかい祭壇と、繊細なレースのカバーに何を見いだすかって?それは10の真実と、終わりなく轟(とどろ)く力です。

    • 人生は舞台ではなく祭壇です。前からそう信じていましたが、人生を左右することは一切できません。正しいことをしようとどんなに努力しても、それはわたしを死から守ることはしませんし、できません。神様はわたしたちを人生での出来事から守ることはされませんが、キリストを通してわたしたちがまさに必要とする充分な力をくださいます。その力は、悲しみを喜びに、苦しみを強さに、最大の悪である死を命に、さらには永遠の命にまで変えてくれるものです。

 

    • 白いYシャツとネクタイ、食料貯蔵、聖句を暗記すること、派手な青少年の活動を計画することなどよりも先に、わたしたちのクリスチャンとしての聖約は、繋がり、交わり、悲しみの分け合い、そして同情であると感じます。それはお互いを愛を持って縫い合わせるようなことです。モルモン書に登場する古代の預言者アルマは、キリストの弟子たちは互いに重荷を負い合い、悲しみ合い、慰め合い、いつでも、どのようなことについても、どのようなところにいても神の証人となるように生活する(モーサヤ18:8-9)という真理を教えました。

 

花柄模様の祭壇レース

    • 自己犠牲と他人を助けること以外の信仰の表現は、視野を狭める危険性を持ちます。それは自己陶酔に過ぎず、究極的にはシオンを編み上げる糸となる材料に欠けています。そしてすり切れ、欠点だらけでも、神聖な天の御両親の子孫であるわたしたちが彼らのようになるために必要なものに欠けています。

 

    • モーサヤ18:21に書かれているように、他の人に手を差し伸べることで、わたしたちの心は結ばれ、もしくは編まれます。そのように編み目が作られていくと結果として、それぞれのモチーフが、ぼろぼろになり、破れながらも仲間たちに支えられ、より壮大な布の一部になっている人を表現する人間織物が出来上がります。

 

    • 他の人の心と自分のものを編み込む作業を始めるには、初めから完全である必要はありません。事実、祭壇のカバーはわたしたちの壊れた肉体と穴の空いた霊という完璧ではなく隙のある姿を思わせてくれます。まわりに手を差し伸べ他の人との繋がりを持つこと、または他の人に手を差し伸べてもらうことは、まるでかぎ針で編み上げられたレースのように、わたしたちが神様に手を差し伸べられていることと同じなのです。人が互いに手を伸ばし合い編まれていくことにおいて、神様がわたしたちのそれぞれ壊れ、穴の空いた心を編み、直してくださるときに奇跡が起こります。

 

繊細なパターンで縫われた祭壇レース

    • 心が壊れることは、わたしたちを激しく貧弱でもろく、ぼろぼろでずたずたに感じさせる一方で、神様が手を差し伸べることのできる隙を与えてくれます。神様のより近くに縫い付けられ、わたしたちはこれまでにないほどに豊かで、何十倍もたくましくなるのです。

 

    • 粉々に裂かれた現象(“torn-to-pieces-hood”ウィリアム・ジェームズによるドイツ語の“Zerissenheit”の翻訳で、様々な役割で引っ張りだこになる状態)を知ることこそ、わたしたちが地上に来た目的の一つです。わたしたちはそのような逆境において、抵抗し憤怒することができます。しかし、同時に、空けられた穴は、神聖さを招くことができると認識することもできます。隙は御霊を招き、わたしたちは主の傷のおかげで癒され、完全になることができるのです。

 

    • 祭壇は嘆きの場所であり、嘆きの場所は敬虔な場所です。悲しんでいる人に会うときに、わたしたちは彼らの神聖な場所に足を踏み入れています。悲しむ人とともに悲しむという同情という行為は、完全さを必要とする場面ではなく、崇高な確実性を必要としています。自分本位や完璧主義趣向の行いは、悲しみを乗り越えることの何の助けにもなりません。わたしたちは、磨かれた部分ではなく、壊れた部分で結束されるのです。

 

    • わたしたちはまず重荷を軽減させるよう努力すべきです。(悲しみに満ち放置された芝を刈り、彼らの車を洗車し、子供たちを遊びに連れて行ってあげましょう。)悲しむのはそれからです。(イエスは涙を流されました。)そして次に慰めましょう。(慰めの意味の英語“comfort”の語源は“con+fortis”で「強さと共に」という意味です。自分のすべての強さを使いましょう。)そして、以上のこと全てしてから、神様の証をしましょう。想像よりもずっと長い間続けてください。

 

    • 悲しみ嘆くことは、祭壇にひざまずくことのように、静寂さが必要なのだと学びました。ユダヤ教徒たちは、シヴァとして7日間喪に服します。わたしたちも少なくともそれと同じことができるでしょう。ただ静けさを分かち合うだけでいいのです。祭壇は、長い談話をする場所というより、耳を傾ける場所です。そして本当に耳を傾けるというとこは、礼儀や作法以上のものです。それはつまり、肉体的な努力と神聖な霊感を必要とする想像力にふけた集中力です。苦しむ人に耳を傾けることは、わたしたちすべてに、人情について知るべき重要なことについて学ぶ機会となります。

 

イェール大学神学教授のニコラス・ウォルターストーフ、また子に先立たれた父親は祭壇と嘆きの場所について次のように言います。

苦しんでいる人にどんな言葉をかけますか?

知恵に満ちた言葉を話すことのできる才能のある人がいます。そのような人は、大変感謝をされるでしょう。わたしたちに声をかけてくれたそのような人はたくさんいました。しかし、すべての人がその才能を持つわけではありません。変で間の抜けたことを口にする人もいました。それでもいいのです。あなたの言葉が賢いものである必要はありません。心から来る言葉は口から出る言葉よりも届きます。もし何も言う言葉が思いつかなければ、単純に「なんと声をかけたら良いのかわからないけれど、あなたと一緒に悲しんでいることを知って欲しい。」と言えば良いのです。もしくは、単に抱きしめてあげてください。どんなに最高の言葉も痛みをなくすことはできません。言葉にできることは、わたしたちの地上での旅路において、新たな日には痛みよりもより良いものがあると証することです。痛み以外のものの中で、最も偉大なものは愛です。あなたの愛を表現しましょう。愛のない状況で子供の死を経験するのは非常に冷酷なことでしょう。

しかし、[息子の死が]本当はそんなに悪いことではない、というのはどうかやめてください。すごく辛いことだからです。あなたが慰めるものとしての課題が、いろいろなことをふまえて、そんなに悪い状況ではないとわたしに言うことだと思っているのなら、あなたは悲しみの中でわたしと共にいるのではなく、わたしから距離を置いています。遠くで、なんの助けにもなりません。わたしが耳にする必要のある言葉は、あなたが、わたしの感じている痛みがどんなに辛いものか認識しているということです。死にものぐるいのわたしの側に、あなたがいてくれるということです。わたしを慰めるためには、わたしに近寄らなければなりません。わたしの隣で、嘆きの場所に向かって座って(もしくは共にひざまずいて)ください。」

—ウォルターストーフ「息子への哀悼の詩」34

この記事はもともとMelissa Dalton-Bradfordによって書かれ、ldsmag.comに投稿されました。