mormon-Christusなぜ神が御自身の福音を地上に回復されるために14歳の農場の少年を選ばれたかわたしはわかります。

両親として初めに、そして教師として、わたしの知っている若い10代の少年たちには悪知恵がないことに気づきました。それはソーシャルメディアが取って代わる何年か前のことで、少年たちは自然と好奇心に溢れ、正直で、夢中になりがちです。時に彼らは中毒になり、しばしば何にもまして愚かなことをしますが、学び理解するために彼らの探求には誠実さがあります。本当に答えを知りたいため彼らは質問をすることを恐れません。

1820年に14歳の農場の少年、ジョセフ・スミスはキリスト教徒の信仰復興運動者によって混乱していて、どの教会が正しいのか知りたいと思っていたことは、わたしには理にかなったことです。

ダナの本、The Eternal Father and His Son(永遠の御父とその御子)の中で、ブルース・ダナはその当時のニューヨーク州北部の宗教的な風土について説明しました。

多くの人々は御父、御子と聖霊は一つの同じ人物だと信じていました。神はもう人々に語られないとさまざまな牧師は信じ教えてきました。彼らは神には肉体は無く、どこにでも存在する霊であると信じた人たちでした。これらの教えの他に、神からの示現や啓示は終わったと何人かは教えました。神の特質について牧師たちが教えたのは1646年に書かれた信条の変化に基づいたものでした。ウェストミンスター信仰告白は以下のとおり謳っています。

「無限の存在であり、完全であり、最も清い霊、目に見えず、体やパーツおよび感情がなく、不変であり、計り知れなく、永遠であり、理解することのできない、全能であり、最も聡明であり、最も神聖であり、最も自由であり、最も完全であられ、御自身の栄光のためにすべての事を神御自身の不変で最も公正な御意志に従って行っておられる、ただ唯一の生ける真の神がおられる。…神会の一致ということにおいて、一つの実体、力および永遠性を持った御三方がおられる-すなわち、父なる神、御子である神、聖霊である神である。父なる神は生まれたものでも生じたもののどちらでもなく;御子は永遠に父から生まれたものであり;聖霊は永遠に父と御子から生じるものである。」

思いやりやキリスト教の信条を宣言しているにもかかわらず、組織間に激しい対立関係がありました。ジョセフ・スミスは彼自身に与えた影響について説明しました。

…様々な教派間の混乱と争いが非常に激しかったので、わたしのように若く、世間のことを知らない者にとって、だれが正しく、だれが間違っているか、確かな結論を出すことは不可能であった。

これら宗教家たちの論争によって引き起こされた、極度に難しい事情の下で苦しんでいたある日のこと、わたしは、ヤコブの手紙第一章五節を読んでいた―「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」

かつて人の心に力を与えたいかなる聖句にも勝って、わたしのこころに力強く迫って来たのであった。それはわたしの心の隅々に大きな力で入り込んで来るように思われた。わたしはこの言葉を再三再四思い巡らした…

真実を明らかにすると決心し、ジョセフは家の近くの小さな森に入って行きひざまずいて真剣に祈り始めました。彼は声に出すと、目に見えない邪悪な力に襲われ、彼は動くことも話すこともできないようにされました。彼は自分が死んでしまうかもしれないと思ったとその時に起こったことを説明しました。

…わたしは自分の真上に、太陽の輝きにも勝って輝いている光の柱を見た。そして、その光の柱は次第に降りて来て、光はついてわたしに降り注いだ。

それが現れるやいなや、わたしは我が身を縛った敵から救い出されたのに気づいた。そして、その光がわたしの上にとどまったとき、わたしは筆紙に尽くし難い輝きと栄光を持つ二人の御方がわたしの上の空中に立っておれるのを見た。すると、そのうちの御一方がわたしに語りかけ、わたしの名を呼び、別の御方を指して、「これはわたしの愛する子である。彼に聞きなさい」と言われた。

まさにその時に、神についての概念が永遠に変わったのです。ジョセフは二人の別個の方々である―神なる永遠の御父と御子イエス・キリストとを見たのです。

神の形を知ることは御自身の力または全能の重要性を引き下げることにはなりません。

むしろ一つの目的を持つ御三方が別々の御方であることを明らかにしています。なぜキリストが12歳の時に御自身が「自分の父の家にいる」(ルカ2:49)と言ったか、なぜイエスのバプテスマのときに天から声があり「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マタイ3:17)と聞こえたか説明がつきます。

人は神の形にかたどられたと創世記の最初の聖句の一つで説明されています。なかにはジョセフ・スミスは嘘つき、または話が現実離れしていると言うかもしれません。聖職者に話した彼はそのように扱われました。彼らは信じたくありませんでした―そして実際に、ほとんど世間的に取るに足りないこの少年を迫害したのです。

わたしは(皆さんに)尋ねなければなりません。どうしてジョセフ・スミスの示現は、どうして体もパーツも感情もなく、3つの理解できないが一つの存在である神よりも信じにくいのでしょうか。ダナが引用したジェームズ・E・タルメージは次のように述べています。「わたしたちは物質性をもつ神の人となりを否定することは神を否定することだと断言します。部分がない物事に全体はなく、物質無き肉体は存在することはできません。」

ダナの本から、彼は最初の章を締めくくるにあたり次のように述べました。

…神に関する真実の概念はもう一度預言者ジョセフ・スミスに明らかにされ、彼は個人的に御父と御子とを聖なる森で見ました。そのように、御ふた方は個々の栄光を受けた方々であり、死すべき人の形と同一の肉体を持っていることを彼は厳粛に証しました。そのうえ、御二方は移動したり、口頭で人の言語で会話され、そして具体的な指示や教えを与えられると話しています。…ジョセフは神が生きておられ、イエス・キリストはその独り子であるという知識で証することができる唯一の証人でした。

参照:

1. Doctrines of Salvation, Sermons and Writings of Joseph Fielding Smith, compiled by Bruce R. McConkie, Vol. 1, Bookcraft, 1954, p. 2; Presbyterian Confession of Faith, chapter 2.

2. James E. Talmage, The Articles of Faith, April, 1899, Twelfth Edition, 1924, pp. 47-48.

3. Milton R. Hunter, The Gospel Through the Ages, Deseret Book, 1958, p. 91.

4. George Q. Cannon, Journal of Discourses, Vol. 24, p. 372.

5. Brigham Young, Journal of Discourses, Vol. 16, p. 31.

6. Orson Pratt, Millennial Star 11: 238, August 1, 1849.

7. Heber J. Grant, An Address to Seminary Teachers, delivered July 13, 1934, Teach That Which Encourages Faith, pp. 14-15 (From a 20-page pamphlet).

8. Joseph Fielding Smith, The Improvement Era 38: pp. 208-209, April, 1935.

 

この記事は、末日聖徒イエス・キリスト教会の会員であるジャン・メイヤーによって書かれました。