モルモン書について聞いたことがありますか。モルモン書は、聖書とは違う聖典で、(モルモン教会と呼ばれてしまうことがよくあるoften inadvertently referred to as the Mormon church)末日聖徒イエス・キリスト教会特有のものです。モルモン書は、アメリカに住んだ神の民の古代の世代の記録です。モルモン書の核心は、イエス・キリストご自身がアメリカ大陸の民を訪れた時です。これが起こったのは、モルモン書の第3ニーファイです。
キリストは、民にいくつかの説教をします。その中の一つは業について語られていますが、その概念は、他のキリスト教宗派でしばしば誤解されています。第3ニーファイ27章のキリストの説教では、業とイエス・キリストの恵みにおいてそれがどのように作用するかについて説明しています。
キリストの教会を築く
イエスがアメリカを訪れられた時、民の中に教会を設立するために多くの時間を費やされました。十二使徒を召し、聖餐を取り行われました。イエスは、教会はイエスの名で呼ばれる必要があると指示されました。
わたしの名で呼ばれなければ、どうしてわたしの教会であろうか。ある教会がモーセの名で呼ばれれば、それはモーセの教会である。あるいは、ある人の名で呼ばれれば、それはその人の教会である。しかし、わたしの名で呼ばれ、人々がわたしの福音の上に築かれていれば、それはわたしの教会である。(3ニーファイ27:83 Nephi 27:8)
キリストは続けてこう述べました。「教会がわたしの福音の上に築かれていれば、父は教会の中でご自分の業を示されるであろう。」(27:10) もし人々がイエス・キリストの福音の上に教会を築くならば、天の父がその教会を通してご自分の業を明らかにすることができるでしょう。しかしもし、人々が自分の業や考えの上に教会を築くと決めるならば、キリストはこう言っています。「彼らはしばらくの間は自分たちの業を楽しむが、やがて最後が来て、彼らは切り倒されて火の中に投げ込まれ(る)」。
真の教会が、男や女の業の上ではなく福音の上に築かれることは、なぜ重要でしょうか。男や女には誤り易い性質がありますが、イエス・キリストの福音の教義は完全なので、その事が極めて重要になります。教会は不完全な人々により運営されていますが、教義の純粋さによる強さが、人々の欠点を補います。私たち自身の業の上に築かれた教会は失敗し、私たちを神から引き離します。
わたしたちの業(行い)は重要である
あるキリスト教宗派は、恵みと業、どちらが私たちを天へと連れて行くかで意見が分かれます。イエス・キリストの恵みなしに天父のもとに戻る機会はないでしょう。キリストご自身が、神の計画の目的を話されています。
父は、わたしが十字架に上げられるようにと、わたしを遣わされた。十字架に上げられた後で、わたしはすべての人をわたしのもとに引き寄せた。わたしは人々によってあげられたが、そのように人々は、父によって上げられてわたしの前に立ち、自分の行いが良いか悪いかによって、行いを裁かれるのである。(27:14)
救い主は私たちを引き寄せることができるように、地上に来られましたが、それでも私たちのここでの選択が違いを生みます。イエス・キリストは、私たちがそうできるようにしないと、私たちを救うことができません。恵みをうけいれる方法は、私たちの生活を彼に倣ったものにすることです。
わたしたちは、その戒めに従って生活することにより、キリストを受け入れる
業(行い)に重きを置くモルモンは、救い主の恵みに反すると考える友人がいました。彼女は、救い主を受け入れることにより自動的に救われる、救いを得るためにさらに必要とされる行為はないと考えていました。これは、イエス・キリストの教義が教えていることではありません。キリストがモルモン書で民に説教をした時、彼はこう言いました。「以上がわたしの福音である。あなたがたは、わたしの教会で行わなければならないことを知っている。わたしがするのを見たその行いを、あなたがたもしなさい。わたしが行うのを見たそのとおりのことを、あなたがたも行いなさい。」(27:21)
キリストは私たちのために苦しみ、私たちの罪を贖いましたが、その贈り物は無料ではありません。私たちがその無限の贈り物を受け入れるならば、戒めに沿って生活し、キリストのようになるよう努力するというキリストの条件を受け入れなければなりません。それが、私たちの行いがそれほど重要な理由です。私たちの行いが、私たちがなろうとしている救い主への証明であり、その恵みをどの程度受け入れているかを示します。
イエスはこの説教を簡潔な文に要約しました。「したがって、あなたがたはどのような人物であるべきか。まことに、あなたがたに言う。わたしのようでなければならない。」(27:27) 私たちが自分で天への道を得ることを、神は意味しているのでは全くありません。それは実際、贖いの計画に反するでしょう。しかし神が意図しているのは、私たちの生活で明らかにされる信念の深さです。この人生がふさわしさの一つであり、もし私たちがキリストにより救われたいのなら、キリストのようになるよう努力することにより、キリストを受け入れなければなりません。キリストは、私たちの心と真意を知ることでしょう。もし私たちが最善を尽くすならば、キリストが残りを埋めて下さり、私たちを形作ってくださるので、いつかキリストのようになれることでしょう。
イエス・キリストの恵みは、私たちの魂に影響を与える、驚くべきものです。キリストの恵みは、私たちが変わり、選び、ふさわしくなるようにしてくれます。私たちの行いは、救い主の恵みと共に作用し、外見上を変え、救い主のようになれるようにさせてくれます。