ジョセフ・スミスが教会を設立する

マスコミや他の多くの人たちはよく末日聖徒イエス・キリスト教会をモルモン教と呼びます。ですから、その教会の忠実な会員はモルモンと言われます。このように誤って呼ばれる理由の一つは、末日聖徒(これが正しい名称)は、その教えと個人の学習のために、モルモン書と呼ばれるもう一つの聖典を使うからです。イエス・キリスト教会の会員は、モルモン書が聖書の教えに増補するものではなく、その教えを高めるものだと主張します。末日聖徒はモルモン書がイエス・キリストについてのもう一つの証であり、聖書もモルモン書も共に神の言葉であると証言しています。

 

教会の名称—諸国民に対するラッパのような証と標準

ある人たちは末日聖徒イエス・キリスト教会は最初の預言者ジョセフ・スミスを礼拝しているという誤解をし、またある人はモルモン書の中の預言者であり歴史家のモルモンを礼拝していると誤解をする人もいます。しかし実際は、末日聖徒は主イエス・キリスト、真実の生ける神の御子を礼拝します。教会の公式の名前、末日聖徒イエス・キリスト教会は、全世界の諸国民にラッパのごとく証するものであり、末日聖徒が、教会が他でもない主イエス・キリスト御自身の名前に倣ってつけられていることを信じ、力強く証しています。末日聖徒は、その名前の基になっている御方を愛し、敬愛し、その方が全人類の救い主であると宣言します。モルモン書の中にはこの信条と証を支持する箇所があります。

「わたしの名で呼ばれなければ、どうしてわたしの教会であろうか。ある教会がモーセの名で呼ばれれば、それはモーセの教会である。あるいは、ある人の名で呼ばれれば、それはその人の教会である。しかし、わたしの名で呼ばれ、人々がわたしの福音の上に築かれていれば、それはわたしの教会である。」(3ニーファイ27:8

現代の聖典、教義と聖約115:4−6に記載されているように、主の教会の名称について、聖徒にゆだねられた世界の光となるようにという責任について啓示されています。

「わたしの教会は、終わりの時にこのように、すなわち末日聖徒イエス・キリスト教会と呼ばれなければならない。まことに、わたしはあなたがたすべてに言う。立って光を放ちなさい。それは、あなたがたの光がもろもろの国民のための旗となるためであり、シオンの地とそのステークに集合することが、防御のためとなり、また嵐と激しい怒りが全地にありのままに注がれるときに、その避け所となるためである。」

モルモン書の序文の中に述べられているのは、教会の回復のために末日聖徒が果たす特別な役割についてです。

末日聖徒イエス・キリスト教会は、メシアの再降臨の準備として、この地上に再建された主の王国です。

ですから、「教会の名前は、(末日聖徒の)作る集団が持つ特別な責任を表しており、一人一人の会員、あるいは聖徒には神の王国を実現することにおける不可欠の役割があることを示しています。」 [1]

 

主イエス・キリストが礼拝の中心

イエス・キリスト教会に対するもう一つの誤解は、イエス・キリストの教えが教会の教義に含まれていないと見なしていることです。記録によるとこの誤りははっきりと否定されています。モルモン書の2ニーファイ25:26、27にその証拠が見つかります。

「わたしたちはキリストのことを話し、キリストのことを喜び、キリストのことを説教し、キリストのことを預言し、また、どこに罪の赦しを求めればよいかを、わたしたちの子孫に知らせるために、じぶんたちの預言したことを書き記すのである。それゆえ、律法について語るのは、わたしたちの子孫に律法が無用であることをしらせるためである。また彼らが、律法が無用であることを知って、キリストの内にある命を待ち望み、律法が何の目的で与えられたかを知ることができるようにするためである。さらに、キリストによって律法が成就して律法が廃されるときに、彼らがキリストに対して心をかたくなにすることがないようにするためである。」

イエス・キリスト教会では、イエス・キリストが神の御子であり、世の救い主であり贖い主であることを教会の教義の中心であり土台であると教えられています。私たちのために主が身代りになってくださった贖いによって、そのすばらしい賜物を受け入れるすべての人が、いつか彼らを待っている愛に満ちた天の父のみもとに戻ることが出来るのです。

末日聖徒はさらに「この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒行伝4:12)ことを証しています。ですから、この死すべき生涯にかかわるあらゆる物質的また霊的事柄の中で、彼らが墓を越えて存続するという生命に備えるときに、彼らは絶えず「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見」るのです(ヘブル人12:2)。