夫の足の手術の為に夫の実家に帰省したとき、日曜日に地元の集会に出席しました。そのときわたしたちは、夫の実家から車で6時間ほど北に行った、とても寒い地域に住んでいました。地元の集会では、夫が育った地域なので、夫の事を知っている人は多く、「久しぶり」「元気にしてた?」「今どこに住んでるの?」と話しかけてくれる人がたくさんいました。
その中で、ひとりの女性が「今どこに住んでるの?」と聞いて来たので、わたしたちは北にある町に住んでいると町の名前を言うと、彼女は驚くべき反応をしました。舌を突き出して、まるで腐ったものでも食べたかのように顔をしかめて「うえぇっ」と言ったのです。わたしは驚きを隠せませんでした。その町にどんな思い出があるのかは知りませんが、そこに住んでいる人に向かっていきなりその反応は…と思わずにはいられなかったのです。
その後、わたしの心は落ち着かず、その女性への嫌な気持ちでいっぱいでした。こんなにもたった一瞬の反応に固執する自分にも驚きましたが、それから少し時間が経って冷静に考えられるようになると、慈愛についての考えが浮かんできました。
慈愛
慈愛は、キリストの愛というふうに説明されることがよくあります。具体的にどういうものなのかは、モルモン書の中でモロナイがこのように説明しています。
“慈愛は長く耐え忍び、親切であり、ねたまず、誇らず、自分の利益を求めず、容易に怒らず、悪事を少しも考えず、罪悪を喜ばないで真実を喜び、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。”(モロナイ書7章45節)
末日聖徒イエス・キリスト教会の会員として育ったわたしは、慈愛を持つように教わってきました。その度に引用されるこの聖句からは、具体的だからこそ、すべてを達成しなくては、というプレッシャーを感じていたように思います。しかし、最近になって少し考え方が変わってきました。慈愛とはなんなのか、というこの聖句は、決して唯一無二の正解ではなく、具体的に慈愛を行動に起こした場合の例なのだと思うようになったのです。
では慈愛の本質とはなんなのか。文字通り、慈しみ、愛することで間違いはないと思います。でも、それが普通の「愛」とどう違うのか。それをよりよく知るカギは、キリストの贖罪の業にあります。
イエス・キリストの贖罪と愛
イエス・キリストは神のひとり子として生まれ、人生のすべてを人々に、そして神に捧げてきました。彼についての数々の預言を成就し、人々を教え導き、模範を示し続けてきました。わたしにとってイエス・キリストは愛の人です。
キリストは全人類の罪を贖い、わたしたちが悔い改めて主に立ち返る事が出来るように道を備えるためにこの世に来られました。目の前の人を愛する事さえ時には難しいのに、彼は全人類ひとりひとりのために人生と命を差し出したのです。その動機は愛以外のなにものでもあり得ないとわたしは思います。
なぜそんなことができたのか。それは彼が全人類は神の子供であり、尊い霊と使命を持っているという事を理解していたからだとわたしは思います。イエス・キリストは誰よりも神を愛していたからこそ、その子供たちを愛し彼らのためにできることを喜んでするほどの愛を持っていました。
キリストは戒めについてこう言っています。
“心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。これがいちばん大切な、第一の戒めである。”(マタイによる福音書22章34節〜40節)
この聖句はよく引用されますが、なぜこの戒めが第一で、いちばん大切なのか、それを語る人は少ないように思います。わたしは、この戒めこそが慈愛の基盤であり、他の戒めを守る理由だから、いちばん大切なのだと思います。イエス・キリストは、自らの人生と命をもって、この模範をわたしたちに示しました。
キリストの模範に従う
“慈愛”とはなんなのか、どうすることで“慈愛”を行いに表す事ができるのか、というのは、わたしにとってとても大きな課題です。ひとつひとつ具体的に考えれば考えるほど、慈愛の人になるのは難しいように思えてなりません。しかし、慈愛がキリストの特質のひとつであることを考えれば、少し簡単になるのです。
一昔前ですが、「W.W.J.D.」という刺繍の入ったブレスレットが流行りました。これはあるプロバスケットボール選手がしていたものが人気になったものらしいのですが、この意味は、「What would Jesus do? (イエスならどうするだろう?)」というものです。これが、わたしにとっての慈愛の鍵です。キリストが生涯を通して示して来た模範を、クリスチャンとして学んでいるわたしにとって、「キリストならどうするだろう?」という質問に対する答えを見いだすのは、「自分はどうすべきだろう?」という質問に対する答えより時に簡単に思えます。
具体的にするべき事を考えて覚えておく事はもちろん助けになりますし、時にはそれが最善のこともあります。しかし、キリストという揺るぎない判断基準を心に留めておく事は、多くの場合より明確に道を示してくれるものです。「慈愛は長く耐え忍び、親切であり、ねたまず、誇らず…」という前述の聖句も、これを暗唱するよりもキリストの模範に従う決意をするほうが容易ではないでしょうか。
慈愛の行い
はじめにお話した女性に対する嫌な思いを、わたしは結局その集会が終わるまで払拭することができませんでした。集会の後ひとりで考えて、祈って、やっとキリストの模範を思い起こす事ができました。
キリストは、罪人と呼ばれる人たちと食事をともにし、まわりの人にとがめられたことがあります。キリストは彼らを差別したりはしませんでした。すべてのひとに同じ愛を注いだのです。それができたのは、彼が人々の本当の価値を知り、本当の意味で彼らを愛していたからです。「罪を憎んで人を憎まず」という言葉を聞いた事がありますが、これこそがキリストの愛の源なのだと思います。
時々、わたしにとって「罪を憎んで人を憎まず」というのはとても難しく感じる事があります。わたしに嫌な思いをさせた人が、そういうことをしたのは、その人がそういう人だからだと思ってしまうからです。でも、人は完璧ではないのです。わたしたちは、自分自身を含めて、互いに赦し合い、愛し合い、キリストの模範に従って天の父である神のもとに帰るためにここにいて、経験を重ねます。集会で会ったあの女性も、わたしに対して悪意があったのではなく、わたしが住んでいる町でなにかあったのかもしれません。それはわたしにはわからないことで、それによって彼女を裁く権利もわたしにはありません。わたしのするべきことは、ただキリストの模範に従い、彼女の本質を愛することなのです。
慈愛は、わたしたちを神のもとへと導くとても大切な特質です。イエス・キリスト自ら示した模範によって、わたしたちは慈愛の意味を知り、それを人々に示すことでキリストや神の思いを少しだけ知る事ができるようになります。神はわたしたちがこの特質を身につけ、彼のもとに戻ることを望んでいます。
この記事はキャンベル・愛美によって書かれました。