あるクリスマス、我が家は経済的にとても困窮しており、とても苦労していました。わたしはクリスマスが好きですが、その時のために使えるお金がほとんどないことで心は暗くなっていました。わたしはいつものようにクリスマスはお金や買い物ではないことを自分に言い聞かせましたが、それは何の役にも立ちませんでした。わたしは贈り物を買って、家を飾り付け、特別なご馳走を作るのが好きでした。それはわたしにとって年に一回の家庭的な時間なのです。
ある日曜の朝、祈る時に私は不平を言っていました。「お金がなくて、3人の子供たちにキャンディーケインも買えません。」と泣き言を言いました。確かにキャンディーケインがその年はわたしの悩みの中で最も小さい物でしたが、それは高いものではなく、自分にとってそれはどれほど苦しいかを現しているようでした。わたしは祈りを愚痴にすることに後ろめたさを感じましたが、そのときはもっと敬虔な祈りなどできないように思えました。
その日の午後、わたしたちはモルモン教の教会へ行きました。教室に向かって廊下を歩いていると、あまりよく知らない男性がにっこりしてわたしにいくつかキャンディーケインをくれました。教会の集会が終わる頃には、ほかの人が同じことをしてくれました。子供たちはキャンディーケインを持って帰宅しました。数日後、お客さんがキャンディーケインを沢山置いていきました。次の週、どこへ行っても、誰に会ってもキャンディーケインをもらい、家族も同じ経験をしました。
ある日、居間を見渡すと、クリスマスツリーはいただいたキャンディーケインでいっぱいになり、あまったキャンディーケインが入った花瓶もいくつかあったのでわたしは笑ってしまいました。わたしは前の日曜日に自分の失望した祈りを思い出しました。皆が、全く知らない人までわたしたちにキャンディーケインを渡す決心をしたように見えました。わたしはキャンディーケインのメッセージが心の中に入ってくるのを感じました。それは神がわたしの必要を心にとめて、わたしを愛しておられるということをわたしに示す方法だったのです。もし神がクリスマスツリーにキャンディーケインが欲しいというようなちっぽけな望みを叶えてくださるのなら、その時わたしが持っていたもっと大切な必要を無視すると信じることができるでしょうか。キャンディーケインはほとんどの人は羊飼いの杖を思い起こすでしょうが、今日までそれはいつもわたしにとって雀を思い起こさせてくれます。
「五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない。その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。」―ルカ12:6-7