イエス・キリストJ・B・ホーズ著

モルモンの人とじっくり話し合えば,その人がクリスチャンであると気づくでしょう。しかし,もしあなたが最近の調査や大統領選の政治的な議論やあるいは人気のあるブロードウエイのショーに注意を払うならば,他のクリスチャンたちはモルモニズムに対して「クリスチャン」としての地位を断固として拒否していると気づくでしょう。

確かに神学的な違いはありますが,問題はこのように拒絶することにおいて,モルモンが神聖なイエスを信じていないという誤った印象を与えていることです。モルモンの歴史学者であるフィリップ・バーローの言葉を借りて言えば,モルモンは「聖書を信じているクリスチャンで,他の人たちとは違っている」と見なされるべきです。

ここで問題なのは一般人の理解です。最近の全国的な調査によると,一般市民の75%はモルモンがイエス・キリストと聖書を信じているかという質問に,「はっきり分からない」と答えているのです。それが障害です。今日の,宗教的に多様性のあるアメリカにおいて,互いの理解の大切さについて強調し過ぎることがありません。

誤解が恐れや偏見を招きます。そして共同したり同情したりする妨げになります。それでも,多くの保守的な福音派のクリスチャンたちはモルモンを「クリスチャン」と呼ぶことをためらいます。彼らは現実をぼんやりしたものにすることを心配するからです。その現実とは多くの福音派の信者にとってきわめて大切な観点である救いとは何かという判断ですが,その点に関して末日聖徒(モルモン教)は三位一体の神の背後にある伝統的な教条主義の考えに賛同していないからです。

モルモンはこの違いについて否定しません。事実,彼らは進んでそれを強調します。神が「あまねく〜」という属性をお持ちであるという言葉を使いながら,モルモン教は父なる神,御子である神,聖霊という神は,特定の形と次元をもたれた方々であり,一人一人の方が形を持っておられるにもかかわらず,その満ち満ちた神聖の業において,完全に一致しておられるのです。

それでも,モルモンは福音派以外の多くの人々が「モルモンがクリスチャンでない」と聞いて,直ちに「モルモンはイエスを信じていない」と結論づけるか,もっと的確に言って,「モルモンはイエスが救い主であり,主であることを信じていない」と結論づけることを気にしています。

本質的に言って,両方のグループが心配しているのは同じことです。根底にある信仰について一般大衆が正しく理解することです。現実的には,「モルモンはクリスチャンか」という質問に対して,すべての人を満足する「はい」「いいえ」の答えはないのです。しかし,もう少し言葉を足せばそれが出来るでしょう。

わたしたちは既に,「クリスチャン」「福音派」あるいは「主流」「正統派」のような言葉に修正を加え,このますます多様性のある社会にあって,これらの言葉の用法をはっきりさせることが有益です。それで「モルモンはクリスチャンか」という質問についてはもっと助けになる答えは,「モルモンは聖書を信じるクリスチャンですが,伝統的、歴史的、正統派的、あるいは三位一体主義のクリスチャンではありません。」このような答えは,聖書に忠実である傾向を強調し,それはモルモンにとって大切ですが,違いもはっきりさせています。そのちがいこそ福音派のクリスチャンにとっては非常に大切なのです。

以下で,何故モルモンについて記述する時に,「聖書を重んずる」と表現することが適切である理由を5つ挙げます:

  1. モルモンは聖書を神の言葉と信じる。

圧倒的な数字で,活発なモルモンは聖書についての深い信仰を表明しています。2007のピュー研究所の調査で,それに応えたモルモンの92%が聖書が「神の言葉」であると信じていました。

公式的に,末日聖徒イエス・キリスト教会は聖書の神聖な由来を絶対的なものとして確認しています。その教会の十二使徒の一人であるジェフリー・R・ホランドのことばによれば,「わたしたちは聖書を愛し,敬っています。聖書は神の御言葉です。わたしたちの『標準聖典』において常に筆頭に挙げられています。」

疑いもなく,「標準聖典」の「聖典」という言葉が拡大して使われているのに気づいて,多くのクリスチャンはそこまでで読み進むのを止めるかもしれませんが,モルモンが誠実に聖書を信じているというポイントを除外視するべきではありません。

次の点を考慮しましょう:モルモンの世界中の何十万人もの十代の子供たちが日々の宗教的なクラスに出席しています。(モルモンはこれを「セミナリー」と呼んでいる。)4年間のうちの2年間は聖書の研究に費やされます。

 

  1. モルモンは聖書が神の言葉で信じているのは,機能的に福音派のクリスチャンが聖書について信じているのと軌を一にしている

2007年の同じ調査の中で,ピューはモルモンと福音派では聖書についての全体的な信条は非常に答えが近く,「神の言葉であると信ずる」割合が,モルモンでは92%であり,福音派では89%になっています。

モルモンが「聖書を重んじる」というのに抵抗のある人は,モルモン教の信仰箇条第8条を読んでみるべきです。「わたしたちは,正確に翻訳されているかぎり,『聖書』は神の言葉であると信じる。」(信仰箇条第8条

BYU(ブリガム・ヤング大学)の宗教学の教授ロバート・ミレットが適切にも述べているように,この信仰箇条でモルモンに対して警告していることは,聖書の無謬性についてのシカゴ宣言の第X条がたとえば福音派の人たちに対して警告していることと比べても聖書の信頼性について少しも傷つけるものではないのです。

1978年のシカゴ宣言は,著名な福音派のクリスチャンの思想家たちによって署名されていますが,それが主張するのは,神聖なる「霊感された内容は,厳密に言って,聖典の原著者の記述にのみ当てはまるものであり,それは神の加護によって,非常な正確さで書かれた原稿から確証されるのである」としていて,しかし,大切なことに,それは完全に正確ではないのです。シカゴ宣言はさらに続けて,「わたしたちがさらに確認することは,聖典の複製や翻訳はそれらが忠実に原点を再現している程度で神の言葉なのです。」

この「程度で」という表現が,モルモンが「正確に翻訳されているかぎり」という表現に匹敵しています。

しかし,モルモンは無謬性を信じていませんから,福音派が聖書を信じている率は「文字通り」信じているという点を考慮すれば,もっと高かったでしょう。それでも,福音派の25%は聖書が神の言葉であると断言しているものの,「聖書の中のすべてのことを文字通りに捉えるべきではない」と述べています。

前記の点が次の事項にかかわっています:福音派の人々の中でも聖書について議論があるのです。

ノートルダム大学の社会学者クリスチャン・スミスは,「聖書の捉え方」を廻ってクリスチャンの間で一致を見ようとすることは,福音派においてのみ可能で,それは彼らの立場が「解釈で多数の考えを認める態度が行き渡っている」からです。

そのように多数の解釈を認めること無しに,彼らの間では聖書を信じているクリスチャンであるという立場を崩さないではいられないでしょう。そういうわけで幅広い解釈が容認されているのです。そしてモルモンの聖書に対する態度は彼らの内部にある多様性を容認しているその範囲に入るのです。

新約聖書の研究者クレイグ・ブロムバーグはクリスチャン・スミスの考えに対するコメントとして,福音派の一致している点である「イエスの神聖のすべて,人間としての側面のすべて,神の道徳的な特質について,人類が普遍的に罪深いことについて(原罪という普遍的な概念とは区別して),キリストが肉体で復活なさったこと,その身体で地上に戻られたこと,愛に基づく倫理が福音の中心であること」について述べています。末日聖徒は個人としても組織としても心からこれらの同じ聖書の基本事項を確信しています。

それを越えて,モルモンとほかのクリスチャンは,両方ともどの聖書の箇所を文字通り受けとめ,どの箇所を象徴的に解釈するか一定の見方をしていますが,そして,その区別は違っていますが,それは彼らが違ったレンズを通して聖書を読むからです。多くのクリスチャンにとっては,世界教会運動の流れ,教会の創立の父たちの考え,「大いなる伝統」と言った考えがその解釈の土台にあり,末日聖徒の場合には聖徒に与えられた現代の啓示や追加の聖典が解釈を方向付けます。しかし,このようなことは聖書自体に対する根本的な態度には影響しません。神学的に見た多様性はあくまで「レンズ」のレベルです。ですから,リチャード・ジョン・ノイハウスがかつてわたしの同僚の一人に言及したように,「末日聖徒のクリスチャンとニケーヤの信条に基づくクリスチャンの間に対話がもっと必要です。」

 

編集者の一言:「後半」では残りの3−5の理由をお伝えします。