写真はMormon Beliefsより
末日聖徒イエス・キリスト教会は、宗教の価値について5つの記事からなるシリーズの最初のものを発表しました。最初の記事が,LDSニュースルームに掲載されましたが,「なぜ宗教が大事なのか:内なる願望」と題されていました。その記事はわたしたちが霊的な存在で,(確かに,モルモン教の教義によれば,神の文字通りの霊の子供たち)わたしたちはいつも,この死すべき生涯の間は神から離れているため,神のことを願望すると説明しています。その記事が述べているのは,
「わたしたちの存在には何か不完全なものがあります。ですから,わたしたちは完全を求めています。もしすべての質問に備えられた答えがあるならば,祈りによって探求する必要がなくなります。もしすべての苦しみに容易な治療があれば,救いを願望することはなくなります。もし,すべて失われたものが回復されていたら,天国に対する願望はなくなります。これらの必要がある限り,宗教が必要です。それは人生の自然な一部です。人間であるという意味は不確かさ,悲しみ,死を経験することです。しかし,宗教は混沌に意味を与え,見えない傷を癒す病院であり,生き残りのチャンスを与えてくれる命綱です。」
その記事は,宗教は単に困難に苦しみ,宇宙がどのように機能するのかに疑問を持つ人が創り出したものではないと主張します。善き時でも,悪しき時でも,自分が直感的に存在を感じているより高い次元の力を探し求めます。「ルードウィッヒ・ウィットゲンシュタインは書いています。『神を信ずるということは世界の事実は物質の目的ではないととらえるという意味です。』」
信じることが人世に意味を吹き込み,「より高い目的の意識」ですが,それが慈善的な施し,奉仕,他の人々への愛がますことを通して実を結びます。人生において霊的な観点が欠けている環境で育てられたり,そういう風に自分自身が生きてきたりしている人たちは,自分のまわりの世界を見て,その営みと要求されることを見て,「これだけが存在の目的なのだろうか」と考えるでしょう。わたしは15歳の時にそのようなポイントに至りました。
突然,世界は空虚に思われ,わたしは深い願望を感じ始めました。癒されることなく,そして,もっと絶望的に感じて,自分の霊的なルーツを,この世で自然に到達できるものを越えた何かを探し始めました。わたしは様々なキリスト教の宗派を探求し始め,わたしはキリスト教をベースにした社会で生きてきたのでキリストのことをほぼ受け入れました。わたしはどの宗派の礼拝行事も楽しく参加したのですが,末日聖徒イエス・キリスト教会の青少年のキャンプに参加して初めて,自分の中に霊的な力が流れ込んで来るのを感じました。その力が非常に力強かったので,その教会のことを探求するようになり,私のホームになりました。
その時は,わたしはモルモンについて,その教義も実践も何も知りませんでした。霊的な学習のまさに第1歩を踏み出したところでした。しかし,わたしが経験した霊的な経験は圧倒されるようなもので,現実的なものでした。そして,その晩が更けるにつれて,様々な教会の会員が個人の経験を話してくれた時に,強まりました。わたしは続けて感じましたが,モルモン書を読んで,それについて祈った時に新たにその気持ちがやって来ました。16歳で,両親がついに譲歩してくれて,わたしはバプテスマを受けて会員になりました。
継続する御霊の祝福
わたしがバプテスマを受けてから50年になります。モルモン神殿で結婚し,信仰の中で子供を6人育てました。60歳代を迎え,清い生活と聖霊の賜物による助けを強調するイエス・キリスト教会に入ったことにより,わたしはこの10年間に罪深い状態が世の中で広まっている中で,それから守られていると知っています。わたしは十代の時に「回復された福音」を知っていなければ,結婚の関係に留まり,そのほかたくさんの享受している祝福には恵まれなかっただろうと思います。子供を育てることに非常に多くの喜びがあり,わたしたちはそれを4カ国にまたがって行ないました。教会員であり,聖霊の導きに従うことによって,そうでないよりはもっと冒険的になります。わたしたちの子供たちのすべてが信仰生活に活発で,グローバルな文化にも同時に注意を向けています。わたしには,子供を育てる時に,祈りと聖霊から受ける絶えざる霊感なしでいることを想像することもできません。個人の啓示は現実的なものです。しかし,それは祈りによって願い求めなければなりません。人々が自分の理性だけに頼って決断をしてながら不平をもらしているのを見るのがつらいです。
ですから,わたしは霊的な渇望について知っていて,そのような願いが真実で生ける神と,その御子イエス・キリストへと導いてくれたことに感謝しています。