2014年4月、私はネパールの地で慣れないながらも床に座り、座布団の上でどうにかもっと快適に座れないかとごそごそと姿勢を変えながら、低いテーブルに置かれた夕食を食べていた。ハンサムだと思っていた彼の隣に座りたくてこの席を選んだのだが、会話が始まって間もなく、彼は私の中で「対象外」に分類された。会話も弾んだし、見た目も良いのだけれど、そこまでだった。彼は私の運命の人ではなかった。
今週息をのむようなアラスカの美しい自然を見渡せる崖の上で、私の前にひざまずき、一生を共にしてくれないか、と私に聞いたのは、この「対象外」の男だった。そして私は少しの迷いもなく、「はい。」と返事をしたのだった。
ネパールのあの日からプロポーズされた日までの間に、私は彼に恋をしたのだった。私の彼に対する第一印象がどんなに間違っていたのか、というのは、この思いがけないラブストーリーのエピソードの始まりでしかなかった。
こんな素敵な関係を子供の頃から夢見ていたし、大人になってからも探し続けていた。有名な愛に関する本や映画でも勉強したり、実際に結婚した兄弟や友人を見ていろいろと学ばせてもらったのだった。そこまでの経験と観察を経ても、本物の人生と本物の愛は驚きの連続だったのだ。
それは、実際に経験するまでは想像すらできなかった驚くべきものだった。
レッスン1:「運命の人」と瞬時にはわからなかった
上記にあるように、彼との数分の会話の様子から、この人と自分には将来はないな、と決めつけていた私。それだけではなくて、それから数日後にも、本気で「ノーだな」としか思っていなかった。当時私と彼は、ネパールで人道支援のボランティアとして滞在中だった。ある晩、現地のアメリカ人の女の子たちがボランティア参加者でカップルを成立させようとしていて、私と彼は完璧なカップルになる、と言い出したのだ。
「なんでよ?どうせふたりとも背が高いからってくらいの理由でしょ。」
当時の私には彼との共通点なんてそれくらいしかないとしか思えず、まさか何時間もおしゃべりしたり、一緒に踊ったり、冒険してみたりする仲になるなんて思ってもみなかった。私から言わなくても彼が私にとって必要なことを理解してくれたり、一緒に世界を旅したりするようになるなど知る由もなかったのだ。
要するに、人は自分で思う程賢かったり、直感で全てがわかったりはしないってこと。元々「対象外」と決めた人と腐れ縁のように色々なことを共にする機会があって、だんだんと一緒にいることや交わす会話が楽しく感じているのなら、それは最初の「対象外」という判断が間違っていた証拠かもしれない。
私の夫となる彼は、かつて好きになった男性たちとは全く異なるタイプなのだが、自分では予測も出来なかったけれど私にとって完璧な男性だった。
運命の人は、会ったその瞬間にわかると思っていた。自分に仕掛けられたサプライズも絶対に感づくタイプだと思っていた。しかし、21歳の誕生日前日に自宅に戻ると、本人には内緒で私の誕生日を祝う為に集まった多数の友人によるサプライズパーティーにまんまと驚かされた。その数年後には夫となる人の目を何度も見つめたのに、それが運命の人だとは思ってもみなかったのだった。
人生には予測外のことがつきものなのだから、良い人への判断はそんなに急がないほうがいいのだろう。
レッスン2:ちょっとくらい大胆なほうがいい
ネパールでの出会いから三ヶ月後、彼と私は電話で(当時私はユタに、彼はアラスカにいた)こんな会話をした。
「今日友達とランチに行ったんだけど、あなたはいつランチに連れて行ってくれるのかしら?」
「もし君がアラスカにいたら美味しい物をたくさん食べさせてあげるのに。」
「あら、アラスカまで遊びに来いってこと?」
「そうかもね。」
そんな軽い会話はすぐに加速し、はじめは冗談のつもりが、いつしか本気へと変わっていった。仮想話にお互い笑っていたのに、気づいたら私は、仮想どころか現実の航空券を予約していたのだった。
私は、どうせ彼とは友達のままで終わるだろう、という思いでアラスカへと旅立った。イケメンと一緒に綺麗な景色でもみたら、心の良い保養になるだろうくらいの軽い気持ちの反面、あの時もしアラスカに行っていたらどうなっていたんだろう、という後悔を避けたいというのも、旅を決意した理由だった。行きの機内で出会った女性に「アラスカには、何をしにいくの?」と聞かれ、「友達に会いに。」と答えたものの、心の中では「そんなの私だって知らないわよ!この男性のことよく知りもしないのに、一体私って何をしにいくのかしら?!」と叫んでいた。
男の為に何千キロも旅するなんてとてもリスクの高い行動だった。そんな大胆なことをしておきながら、ちょっと興味があるだけ、という雰囲気を保つのは容易ではなかったが、この大胆さがあとになって本当に報われる結果となったのだ。アラスカ滞在中に、人生でこれまで経験したことがなかったくらいロマンチックな夜に彼とレストランで食事をしていると、窓から「Wild Abandon(自然に身を任せて)」という名前のボートが目に入った。
恋に必要なのはまさにこれだと思う。少しばかり流れに身を任せること。
リスクが大きい程、報酬も大きい、とはよく言ったものだが、私もこの経験を通してその言葉の意味がわかった。
レッスン3:彼が惚れ込んだのは飾らない私
「私は私、それ以上でもそれ以下でもない。」と頭ではわかっていても、少し控えめにしないと相手から好かれないのではないかと本来の自分を隠してしまいがちだった私。興味のある男性が、他の女性に興味を示しているのを見て、「私がもしもっとあんな風だったらわたしも彼に好かれてただろうに。」とか「あの子は全部揃ってて完璧だもんね。」と思ってしまうのは自然なことだろう。
しかし、自身のベストを尽くした上で、それ以外のものになれたらいいのに、と願う必要などないのだ。
初めてのデートで、夫となるこの彼は、私に歌ってくれないか、とお願いしてきた。とても恥ずかしかったし、たいしたパフォーマンスもできなかったと明らかにわかっていたけど、私の中の音楽やミュージカルに対する愛が伝わったらしく、彼は正真正銘の私の姿を見ることが出来た。私は時々、どうしても言いたいことがあるとつい感情に任せて声を荒げてしまってから「しまった、言い過ぎた。」と、ふと我に返ることがある。そんな時も彼は笑顔を絶やさず、私がどんなことに関心があるのかを理解できて嬉しい、と言うのだ。(しかもそれが彼には全く興味のないことだったとしても、そう言ってくれる。)
心の奥底や本来の姿を見たり、理解しようとしたりしてくれない人と交際している人は、その人の前で良い顔をするのに疲れてしまうから、何か辛いことがあったり大変な時期にその人と一緒にいたいとは思わないだろう。自分らしくいることを喜んでくれる人を見つけて、好かれようとしたり、媚びたりしないことが大切なのだ。まわりに合わせて自分を変えようとすると、かえって期待に応えられていなかったり、変化の途中で自分を見失ってしまいかねないのだから。
レッスン4:怖くて言えないことこそ、言ったら楽になる
これは未だに驚いてしまう愛の現実。元々、真面目で核心に迫るような会話は苦手だった私。友達ではなくて恋人になってほしいなんて言えない、こんなに色々してもらって別れたいなんて言えない、傷ついたなんて言えない、といった具合。しかし言い出せないことを言えるように聞き出してくれたり、いつでも話しを聞いてくれる努力をしてくれる人がいるというのは人生最大の祝福と言える。聞いてくれるし、理解もしてくれる話し相手。
高校時代は、よく父とこんな冗談で笑っていた。私が帰宅すると、今日学校で誰かと言い争いになったと詳細を伝える。「あの子がこう言ったからわたしはこう言ってやったんだ。」と気の利いたことを言った経緯を伝えると、父は「本当にそんなこと言ったのか?」と尋ねる。そして私の答えは「そんなわけないでしょ。」
何かに対して意見はあるけど、波風立てたくなかったり、恥をかくのを避ける為に何も言わないという選択をする人は多いだろう。そのような場合、結果として心に貯められた恐怖心や憤りのせいで元々の問題よりも大事になってしまうのだ。
最近私は、「そういう返事の仕方をされると、聞いてないんじゃないか、って思っちゃう。」とか「次にこんなことがあったら、もう少し私の意見に繊細になってくれると嬉しいな。」といったようなアプローチを取るようにしている。怒りの頂点に達してからの「あなたっていつもそうじゃない」とか「こうしてくれたことなんて一度もないじゃない」だけは避けたいのだ。気まずいことには触れたくないし、本当のことを話したら、心の距離が離れてしまうのではないかと心配するのだが、こういう会話の結果はそんな心配事とは全く逆なのだ。
おそるおそる会話を切り出し、話し合いが終わる頃には二人の距離は縮まり、彼への愛情が深まっている。
レッスン5:心の器と信頼
それに続けて言いたいのは、人を愛することによって心の器が広がる、ということ。時々、誰かの発言や行動にいらついたり、怒りを覚えたりすることがある。しかし、恋をした事によって自分でも存在すら知らなかった心の中の声にマイクが向けられるようになったのだ。その声は、私がこの人を愛していることを思い出せるように、心の中で深くこだまする。
愛というのは、お互いの弱かったり壊れやすい部分も含めて相手を信頼することだ。一度相手に信頼されたのなら、賢く受け答えをしないと、その信頼を失う事になるだろう。
レッスン6:待ったかいがあった
雑誌Meridian読者として18歳のころから私の記事を読んでくれ、本物の愛を探し続けた私を見てくれた人たちに胸を張って報告したいのは、本当に彼が現れるのを待ったかいがあった、ということ。
独身でいる事の寂しさに負けてそこらへんの人と結婚しなくて本当によかった。これまでの人生で、喜びをたくさん感じてきたけれど、心から信頼できる人を見つけたのは確実に最大の喜びだ。安心できる、感謝してくれて、私を認めてくれる、そして私を必要としてくれる相手がいるおかげで、私の人生はより実り深いものとなった。
読者の一人にこんなことを言われた事がある。運命の人を見つけるのは、実際にそれが起こるまでミステリーなのだ、と。彼女曰く、それは警備員として働く彼女の友人が、夜間勤務中まだかまだかと次のシフトの警備員が来るのを待ち遠しく思っているようなものらしい。その友人は、静まり返った夜中に、何度も同僚が鍵でドアを開けるような音を聞いた気がするのだが、実際に同僚が鍵を開ける音を聞くと、違いは明らかなのだという。本物は、間違い様がないのだ。
本物は、間違い様がない。私は本物の運命の相手に出会えて本当に幸せ者だ。
この記事はもともとLDSマグに投稿され、マライア•プロクターによって書かれました。
Trackbacks/Pingbacks