イエス・キリストにどのようなことを期待しますか?

イエス・キリストへの期待

末日聖徒イエス・キリスト教会の使徒の1人であるディーター・F・ウークトドルフ長老は、ユタ州プロボ市にあるブリガム・ヤング大学でのディボーショナルで、「キリストに期待することと自分が行うこと」について話しました。

それはキリストが十字架に掛けられる前の最後の1週間から学ぶことができます。

エルサレムに入城した時にそれを見ていた当時の人々は、「大きな期待で胸を膨らませていました。しかし、本当に正しいことを期待していたのでしょうか。」

とウークトドルフ長老は学生たちに問いかけました。

わたしはこのような視点で聖書のハイライトを見たことがなかったので、当時の人々のことをちょっと想像してみました。

人々はキリストが自分の生活をすぐに良くしてくれると思ったのかもしれません。

または、ずっと一緒にいられると信じていた人もいたでしょう。しかし、現実は違いました。

キリストの弟子たちでさえも、キリストが十字架に貼り付けられて亡くなったことに大変困惑したことでしょう。

ウークトドルフ長老は、このショッキングな出来事についてこのように言いました。

「もしイエスが十字架から降りて自分自身を救っていたなら、それは人々にとってとても印象的だったでしょうし、彼がただの人間ではなく、神の子かもしれないと信じた人もいたかもしれません。

しかし、彼はあえて一人で苦しみの道を歩み、すべての神様の子どもたちを救うために、究極の犠牲を捧げることを選びました。自分自身を救う力がありながら、それを使わなかった。そのことこそが、まさにイエスが神様の子であり、天の御父の御心に従い、救いの計画を最後の息まで成し遂げる方だという、最も崇高な証となったのです。」

キリストは人々がパッと見て分かりやすい救出劇をしたわけでも、人々が望むような奇跡を行いに来たのでもなかったのです。彼が人々に捕らえられ、いいがかりのような罪を自己弁護せず、あっという間に十字架に張り付けられた姿を、人々はどのように思ったでしょうか。

  自分でさえも救えないのに、わたしたちも救えるのか?

  結局イエスもただの人だった。

そんな風に思った人もいたのかもしれません。

これらは勝手な想像なので、実際に人々がどのような感情を抱いたのかは分かりませんが、人々が期待していたことと全く違った展開が起き、この悲劇こそがとても重要な出来事だったのです。

人生でうまくいかないときこそ

わたしたちの人生で物事がうまくいかないとき、この出来事を模範として見るべきだとウークトドルフ長老は教えています。

「福音の美しく普遍的で永遠の理想と、わたしたちの人生の中で経験する痛みを伴う現実がぶつかる時、わたしたちはどうすればよいのでしょうか?覚えていてほしいことが2つあります。理想をあきらめないこと、そして現実を無視しないこと。この両方を受け入れるのです。」

理想をあきらめないために、わたしたちは高いところから物事を見ることが大切です。つまり、神様の視点で物事を見るのです。

わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。

 天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。

イザヤ書55章8-9節

神の前で軽々しく口をひらき、また言葉を出そうと、心にあせってはならない。神は天にいまし、あなたは地におるからである。それゆえ、あなたは言葉を少なくせよ。

伝道の書5章2節


「高い場所から見ると物事は小さく見えるように、神様はわたしたちをより高く、より神聖な視点へと導こうとされています。
そうすることで、世界やその中の課題を違った目で見ることができます。すべての創造と救いの計画という広い視野の中で物事を捉えられるようになります。物事の核心を、今まさに渦中にいるときには見えないような形で理解することができるのです。」

ディータ―・F・ウークトドルフ

高く神聖な視点を持つ方法

高く神聖な視点を持つために次のことが勧められています。

・日々の聖典学習

・日々の祈り

・毎週の礼拝

さらにこのように自問してみてください。

  • わたしは、イエス・キリストに自分の王になってもらいたいという思いを示しているだろうか?
  • わたしの人生の中に、キリストが凱旋して入ってくるよう招いているだろうか?
  • キリストにわたしの心を変えてもらい、わたしの視点を高め、より高く神聖な道を教えてもらうことを受け入れているだろうか?

皆さんにとってイエス・キリストはどのような方でしょうか?古代の人々はキリストが十字架に掛けられたことで、傷付き落胆しましたが、今のわたしたちにはその意味が分かります。

高い視点を持つことで、その残忍な出来事に全人類にとって重大過ぎる意味が含まれていることを知ることができます。

そしてわたしたちは、日々の生活の中に神聖な要素を取り入れることで、高い視点を養い、予想もしていなかった出来事を受け入れ、いつもキリストを覚えていることができます。

わたしたちがキリストに高い視点を持って期待し、自分にできることを行うことで、イエスがわたしたち一人一人を個人的に救ってくれるキリストであることを知ることができます。