編集者の一言:前回の投稿ではサタンが何者で何をするかを紹介しました。今回最終回の投稿では、なぜ私たちに宗教が必要なのかをお伝えします。

 

宗教は自由で文明化した社会の基礎です

 宗教は自由で文明化した社会の基礎です。この理由で宗教の自由が大変大切なのです。宗教はわたしたちの道徳的なコンパスだからです。宗教なしでは,社会の道徳や価値観は荒れ狂ってしまいます。イエス・キリストの使徒であるM・ラッセル・バラード長老が述べているのは:

「わたしはジョージ・ワシントンが,市民が公の会合で祈ることを禁じられている時を見て戸惑うだろうと思います。人々が『道徳的なことを法制化することはできない』と主張する時,どのような法律でもそれが法制化する過程でその核には善悪についての観点があったでしょう。神の戒めに逆らうような公的な方針に反対して語る時に,教会は侵入者と呼ばれるのです。多くの人々は自分の日常生活に影響を及ぼすものであるならば,教会が改善させようとする影響力を拒否します。人々は教会の代表者が自分たちの説教台以外で、どのようなフォーラムなどでも話す時にいらだつのです。。。。。わたしたちの見ているのは現代の生活の悲しい現実です。ポルノグラフィーを促進する人たちがその搾取的なフィルムや写真を配布する権利を許している人たちが,信仰について人々に話す自由を否定するのです。その理由はというと,もし宗教の影響が政治や公の会合に出てきたら困るという恐れから来ているのです。社会のかなりの部分が,ギャンブルがその地域に進出して、家族や個人がその人間破壊の影響力が乱歩するのを許しておきながら,神の戒めに従順であることを主張する人に対しては,また普遍の霊感された善悪の標準に対しては,最も激しいののしりを向けるのです。」 [1]

わたしたちはどのように不道徳と邪悪の破壊的な動きを止めることができるのでしょうか。宗教の教えによってです。バラード長老が語っているのは:

「憲法が政府と宗教についての規定しているのは,政府が人々の宗教的な権利をコントロールしないように意図されていることです。むしろ,それらの規定は,それを拡大し,政府の侵害に対する恐れを除去することです。これらの規定は宗教と政府を分離することによって宗教が独立したものになることです。。。。。事実,憲法の外郭を作った人々はたぶん,宗教の自由が宗教を見張り番として政府の活動をチェックすることを予測していたと思われます。そして彼らは,自由な教会は不可避的に立ちあがって不道徳や腐敗した法制化に反対の声を挙るということを信じていたでしょう。すべての教会は公的な道徳の問題についての言論の自由を許されるべきであるだけでなく,彼らにはそうする厳粛な責任があります。宗教は社会の良心を代表するもので,政府が神の律法に逆らった道を選ぼうとする時には,公に発言すべきです。単にそれがある人々にとって道徳的な拘束を少しで設けることが不快であるという理由で,公の政策から宗教の影響を取り除こうとすることは,沈みつつある船に乗っている乗客が拘束して不快だという理由で救命用具を外すようなものです。」 [1]

 

わたしたちは公共の場から神を排除することはできません

サタンを奉ることは神に対するあざけりです。神は善良で,純粋で,神聖なもののすべてです。サタンはすべて邪悪で,悪性で,俗悪です。この2つの存在はあらゆる面から対極的です。神は至高者です。サタンは最も低いものの最たる存在です。サタンのために記念碑を建てようとするのは,サタンが悪魔であり,あらゆる偽りの父であり,あらゆる極悪非道な,辟易するような,下品な,邪悪なものを代表する存在であるために,そうすることは単に神をあざけり,神が代表するあらゆる善を冒涜することです。これが起こる時には,わたしたちは真剣に一歩退いて,わたしたちが社会としてどれほど正義の道を逸れてしまったかを評価する必要があります。

祈る無神論者からサタン崇拝主義者まで,反宗教主義を唱える人たちは,公の場から宗教を除外しようとしています。そして,わたしたちが政治的な正しさに対して熱情を抱く中で,彼らの言葉の罠にはまっていないでしょうか。自分たちのルーツを忘れていないでしょうか。若きアメリカにたどり着いた人々は礼拝の権利のために戦ったのです。アメリカは神を信じる人々の手によって建国されたのです。建国の父でさえ,民主主義はより高い次元(神)の力に対して自分に責任があると信じた人々にだけ有効であると知っていました。人の魂の破壊者であるサタンを崇める人たちにではありません。M・ラッセル・バラード長老はイエス・キリストの使徒ですが,次のように語っています:

「信じられないことかもしれませんが,ある時代には政府という存在自体が,徳の問題を政策より重んじていたのです。憲法の父としばしば言及されるジェームズ・マディソンによると,『わたしたちはアメリカ文明の未来のすべてを政府の力に委ねはしませんでした。それとは全く違います。わたしたちは政治的な機関のすべての将来を,わたしたち一人一人の自分自身を神の十戒にそって治める能力に委ねてきたのです。』(ラス・ウォルトン,敬虔なクリスチャンにとって大切な聖書の原則,ニューハンプシャー:プリマス・ファウンデイション,1984年,361ページ)[1] 

十戒を自己を治める象徴として大事にすることは1つの宗教をほかの宗教より優遇するということではありません。それは,単にわたしたちが人々としてどう振る舞うべきかについて思い出す手がかりなのです。結局,建国の父ジョーン・アダムズが言ったように,

「いかなる政府も,道徳や宗教によって制御されていない人間の熱情に対抗する力によって防御されていません。」(ジョーン・アダムズ,ジョーン・アダムズの業績,合衆国の第2代大統領,チャールズ・F・アダムズ,1854年)

わたしたちが1つの社会として神と宗教に対する敬意を失うと,わたしたちは自律した政府が築かれる基礎を失います。十戒をあざける人々は文明化して自由な社会の道徳的コンパスを維持するまさにその拘束力を取り払うことになるのです。社会は強制されて文明化するのではなく,内部から文明化するのです。