悲劇から歓喜へーコークビル爆弾生還者に聞く

悲劇から歓喜へーコークビル爆弾生還者に聞く

以下の質疑応答のインタビューはパティー・サンプソンというLDSブログの記者と、ワイオミングのコークビル爆弾生還者のジェニー・ソレンセン・ジョンソンさんとの間で行われたものです。この記事は許可をとってこの場で掲載されています。原文の記事はLDSblogs.comにて読む事ができます。

 

悲劇から生還して

今回、私はジェニー・ソレンセン・ジョンソンさんと話す機会を得ました。デヴィッド・ヤングが一年生の教室に爆弾を落とした時、ジェニーは7歳でした。ジェニーはコークビルの奇跡を経験した1人で、悲劇を歓喜へと変えたすばらしい実例です。

LDSブログ:先程、思いがけない出来事がこの経験からもたらされたとおっしゃっていましたが、もう少し話していただけますか?

7歳のジェニー

7歳のジェニー

ジェニー:私の子ども達が学校に行き始める時、私はあまり感傷的になりませんでした。多くの母親達は学校の初日に葛藤するものですが、私は大丈夫でした。幼稚園は何事もなく終わりました。しかし、子どもが1年生になった時に変わったのです。私はとても心配性になり、用心深い母親になりました。気が狂ってしまったのかとも思いました。学校に残り、ただ教室をずっと見張っているのです。

なぜ自分がこんなことをしているかと不思議に思いました。そして、自分の経験を思い出したのです。爆弾が爆発した時、私は一年生でした。事件は私の教室で起こりました。先生が教科書を読み上げている所に、あの男がガソリンでいっぱいの買い物カートの爆弾を持って入って来たのです。1人の女性がたくさんの拳銃を持って、彼の後に続いて入って来ました。

学校にいた他の人達も全員その教室に集められ、2時間半そこにいました。と言っても、子どもにとっての時間の流れは違います。2週間もいたのように思えたのです。

あの事件の余波が世界中に広がったのを覚えています。あの日の事が綴られている日本の新聞さえ持っています。こんなに早く話が伝わっていったことに、とても驚きました。

LDSブログ:事件後、地域ではどのような反応がありましたか?

ジェニー:私たちは楽天的で元気に過ごしていました。この事件は夏休みに入る2週間前に起こりました。その年の5月16日は金曜日でした。爆破の2日後の日曜日に、教室に入ってみる機会がありました。爆弾が爆発した時に座っていた所を見たのを覚えています。どうやって生還したか全く覚えていません。1インチ(2.5センチ)四方すら銃弾と火の害を受けていない場所はありませんでした。しかし私たち全員が逃れ、そして全員生き延びたのです。これは奇跡です。

火曜日になると私たちは再び学校に通い始め、その年を終えました。私たちは大丈夫でした。先生達がヒーローだったからです。

 

たくさんの天使たち

LDSブログ:映画の中では多くの子ども達が天使に連れ出されて行くのを見ました。あなたにも天使がいましたか?

ジェニー:はい。でも、彼女が天使かどうか分かりませんでした。私の天使は白い服を着ておらず、普通の服を着ていました。彼女が誰か分からず、とっても優しい先生だと思っていました。私はその後何年も彼女を探しました。

爆発の直後、火はそんなにありませんでした。ドリス・ヤングに火がついているのを見たのは覚えていますが、他にはそんなに火は大きくなかったです。煙はすごかったです。深くて黒く、周りを見る事ができませんでした。

天使は私を導いて教室の外へ連れ出してくれましたが、靴を片方なくしてしまったことに気付き、教室へ戻りました。なくしたら母親に怒られることを心配したのです。(焼けた教室を見学に行った時に靴を見つけ、ほっとしました。今になって、母親が靴なんて全く気にしていなかったことが分かります!)天使は私の肩をとり、また手を繋いで外へ導き出してくれたのです。彼女がいなかったら出て来られなかったでしょう。

しかし、彼女が誰だったかを知るには、それから数年かかりました。爆弾が爆発したのは7歳の時でした。そして12歳の時に全ての謎が解けたのです。当時、日曜日に祖母が家族の写真を整理するのを、よく助けていました。

私達は写真をアルバムに入れ替えていた時、遂に私を助けた女性を見つけたのです。私はこの女性が誰か尋ねました。「この先生!この先生が爆発の後、私を学校の外へ逃がしてくれたの!とっても優しい人だったわ。なぜ今まで会えなかったのかしら?この先生、私の先生になってほしい。」

家族の皆が泣いていました。何かまずい事をしたのかと思いました。子どもはそう考えるものじゃないですか。いつも理解できるわけじゃないですよね。

ジェニーの家族 1986年

ジェニーの家族 1986年

私が見つけた女性は祖父母のおばにあたる、ルツおばあさんだったのです。その写真を見つけるまで、私はあの事件のことを話したことがありませんでした。家族はセラピストに診せてくれたのですが、私はセラピストが怖かったのです。とてもいい人だったのですが、知らない男の人と二人きりで部屋にいるのはとても居心地の悪いものでした。私は黙り込んでいました。

コークビルの人々も、事件以来あの日の事を決して話しませんでした。事件から30年も経ちますが、未だに話さない人もいます。まだ知られていない奇跡があるのです。他の生還者にも、彼らの経験は錯覚じゃないと知ってほしいです。どんなに小さな奇跡も、確かに奇跡なのですから。この映画が彼らを癒やす助けになる事を願っています。実際に私はたくさん助けられました。

祝福されて、この映画が制作される時にトム・C・クリステンセンと話す機会がありました。彼はオープンセットを作り、生還者一人一人が制作に加われるよう招待してくれました。私たちは台本を読み、当時の記憶を分かち合いました。撮影を見学し、俳優の方達とも話すことができました。彼は私たちの経験をとてもよく描いてくれたと感じています。

LDSブログ:なぜ狂った男がそんな犯行に走ったのか知っていますか?

ジェニー:デヴィッド・ヤングはひどい糖尿病でしたが、とても頭が良い人でした。しかし、糖尿病が何らかの方法で彼の思考に影響を及ぼしました。彼の日記が調査されました。彼は町の警察署長でした。彼は素晴らしい銃の打ち手でした。銃を指で回してから、対象物を打つほどの腕前でした。しかし、彼は変わりました。銃で人の足を打ち出したことで、彼は解雇されました。かつて普通だった彼は、狂っていったのです。

学校の爆破は、仕事を解雇されたことに対する復讐でした。町には住民が500人しかおらず、130人は子どもでした。これ以上に衝撃を与える逆襲はなかったのでしょう。コークビルは家族を重んじる町でした。町の人々にとって子ども達は全てだったのです。子ども達のためだったら、何でもしました。

 

私が生かされた理由

LDSブログ:この地域は映画で描かれていたように宗教的だったのですか?拝見させていただいたような、思いやりのある町だったのでしょうか?

ジェニー:トムは映画でたくさんのことを紹介してくれました。しかしコークビルが絶景を誇る場所であることは含むことができなかったようです。爆弾の前も後も、壮観な場所です。素晴らしい人達でいっぱいの本当に良い場所です。95%はモルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)の会員です。モルモン教ではない人も、純粋でしっかりとした素晴らしい方達です。とても信頼できる人達です。

この小さな町の団結力は強固です。おかしなことだと思うのですが、町の人々は爆弾事件の話をしないので、今は事件について何も知らない住人もいるのです。

助からなかった人達がいる中で、なぜ私たち全員が助かったのかは分かりません。しかし、もしあの爆弾が予定通りに起爆していたら、私たちはきっと死んでいたでしょう。家族を全てなくした人もいたことでしょう。映画の中で、子どもを車に残して行った女性は、あの日4人の子どもが学校にいました。

現在のジェニーと家族

現在のジェニーと家族

私は家族のために生きる必要があったと確信しています。将来自分の子どもを持つ事ができるようにという事だけではなく、私の両親のためにもです。近年、母以外の身近な家族を全て亡くしました。もしあの日に私が死んでいたら、今頃母は1人っきりだったでしょう。母方の祖父が、焼ける学校から走って逃げる私を見つけ、抱え上げてくれました。彼は私が高校2年生の時に亡くなりました。とてもショックでした。そのたった3年後、実の父が41歳で突然死したのです。私は再び悲嘆に暮れました。父方の祖父は2007年に他界しました。私は彼とも、とても仲がよかったです。私の祖父母は皆、コークビルに住んでいました。それからまた悲劇が家族に起こったのです。唯一の弟が2009年に28歳で亡くなりました。母親のために私はここにいる必要がありました。私にも彼女が必要でした!

私は多くの人々のために生き残る必要があったのです。家族が永遠であることを、とても幸せに感じます。この映画が人々の信仰を思い出させる手助けとなることを願っています。私たちが生活しているこの世界には悲劇や狂気で溢れています。神がいることを思い出す必要があるのです。私たちが祈るならば、神はその祈りを聞いてくださるのです。祈りは本当に力があります。

LDSブログ:ジェニーさん、ありがとうございました。素晴らしいお話を聞く事ができました。

 

LDSblogs.com により再掲載