末日聖徒イエス・キリスト教会(一般的にモルモン教会といわれることの多い)の会員は、人に仕えたいという生まれながらの性質を持っています。彼らは常に、どこでもいつでも必要な時に召しに応じる準備ができています。

CharityHappinessQuote1末日聖徒イエス・キリスト教会の最初の預言者、ジョセフ・スミスは、聖徒(教会員)に、「相手が当教会の会員でも、他の教会の会員でも、どの教会にも属していなくても、見つけた時はいつでも、空腹でいる人に食べ物を与え、裸でいる人に服を与え、寡婦を養い、孤児の涙を乾かし、悩んでいる人を慰めるように」(1)と教えました。それは、ジョセフ・スミスの時代の聖徒たちのためだけのレッスンではなく、今日のイエス・キリスト教会の会員も心に留め従うためのものです。

新約聖書のヤコブ書には、このように記録されています。「父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まらずに、身を清く保つことにほかならない。」(ヤコブ1:27) 困っている孤児とやもめを訪問し世話をするというのは、まさにLDS人道支援宣教師ジムとカリン、アンダーソン夫妻が、ヨルダンで膨れ上がっているシリア難民に無私の奉仕で毎日していることです。彼らの任務は、モルモン書(イエス・キリストのもうひとつの証)のベンジャミン王が人々に影響を与えた不朽の説教にある教えの良い例です。「そして見よ、わたしがこれらのことを語るのは、あなたがたに知恵を得させるためである。すなわち、あなたがたが同胞のために務めるのは、とりもなおさず、あなたがたの神のために務めるのであるということを悟らせるためである。」(モーサヤ2:17)

ヨルダンは、ジムが銀行の頭取、カリンが看護師をしていたユタ州ファーミントンの牧歌的で穏やかな世界とは確かにかけ離れています。カレンはしばしば、世界中の顔面変形の子供たちの治療をするための慈善組織、スマイル作戦と共に巡回していました。60代の夫婦は、末日聖徒イエス・キリスト教会の奉仕の召しをどのような内容でも受けた時、強風で、埃っぽく、人があふれている難民キャンプでの砂利作業を監督し、シリア監視団によると34000人以上のシリア人が殺されたという残虐な紛争からの避難者を慰めるとは、ほとんど想像もできなかったでしょう。ヨルダンの国境開放政策は、戦火を逃れたすべての人に避難を許可しました。紛争の両側から受け入れたため、キャンプ内の緊張を高めました。

国連難民機関渉外担当官、アリ・ビビは、215000人のシリア人がヨルダンのシェルターにいると言いました。彼はさらに、この人の波は、世界で4番目に水資源の貧しい国ヨルダンに対して、何千、何万という避難民に住居と食事を与えなければならないという負担をかけていると言いました。

「大規模インフラ開発が日常的に行われています。」ビビは言いました。「食品と非食品のサポートに加えて。」

キャンプはまた、難民たちが自分で調理できるように乾燥食品に移行しています。

「ヨルダンはベストを尽くしています。」彼は言います。「ヨルダンが前進できるように、移行期の生活必需品を支援する国際的な援助が必要です。」

そこで、アンダーソン夫妻のような信仰深い、謙遜な奉仕者と他の援助活動従事者が必要となります。LDS(末日聖徒イエス・キリスト教会の略称)の夫婦が20012年の4月にヨルダンに到着した時、北部のいくつかの町に行きました。そこには、お腹をすかし、傷つき、混乱し、着るものだけを背負って国境を越えてきた難民たちがいました。

「わたしたちは、拷問されて牢屋に入れられていた負傷した人々に偶然出会い、少しの時間を過ごしました。」カリン・アンダーソンは言います。「地域の攻撃を逃れた18歳の青年に出会いました。彼が戻った時、母も父も、2人の姉妹と一人の兄弟も皆、喉をかき切られていました。」

アンダーソン夫妻は、35000人以上に住まいを提供するヨルダン最大のシリア難民キャンプ、ザアタリにその時間と労力のほとんどを費やしました。そこは、アンマンから2時間あまりの、無秩序にテント村が広がっているところでした。北部国境の町、マフラクの近くに位置し、暑くて誇りっぽい強風がテントを吹き倒し家族を混乱させる砂漠にはキャンプが必要不可欠です。

「最初のテントが張られる前にその場所を見た時の第一印象は、『ここに人々を連れてくることはできない。』でした。」とジム・アンダーソンは言います。「水は無く、近くに町も無い。彼らに移動手段を与える方法がありませんでした。」

LDSの慈善奉仕を代表し、末日聖徒イエス・キリスト教会の人道支援活動代理人、アンダーソン夫妻は、キャンプを運営するために多くの援助団体、特にすべてのシリア人救援活動を監督し国連のパートナーであるヨルダン・ハシミテ慈善団体(JHCO)と共に働きました。アンダーソン夫妻は、ニーズを査定し、「ハンドアウト(施し)」というよりは「ハンドアップ(手を貸して助け上げる)」によって、自分たちができる手助けをし、「ギャップを埋めた」と言っています。

ザアタリキャンプがオープンする前は、ヨルダンは、難民を社会に吸収しようと試みましたが、その努力は既に弱っている経済を打ちのめし、政府は大規模なキャンプを立ち上げました。ザアタリキャンプがオンラインにつながる状態になるまでには、8000人の難民が待っていました。今キャンプは、すべてのシリア人難民に義務的なもので、警備員と警察により平和が保たれています。

無秩序状態の初日、トイレ設備、洗い場、水さえもキャンプにはありませんでした。今は、トイレも、使用可能なキッチンもわずかな秩序もあります。UNICEFとセーブ・ザ・チルドレンは、学校を提供し、5000人の子どもを2012年の12月までに受け入れるよう求められていました。それはキャンプにいる14000人近い子供たちの一部に過ぎませんでした。

国連は難民の流れに対応するために、懸命に24時間体制で何百ものテントを建てようとしています。それはシリアでの流血により変わりますが、一日に最高2500のテントを建てました。重圧は大きく、状況は憂鬱ですが、ジム・アンダーソンは改善したと言っています。

「おおくの献身的、慈善的な人々が働いています。」彼は言います。「これらの難民のためにヨルダンがしていることにとても敬服します。」

LDS慈善奉仕は、ヨルダン側のパートナーと共に、常にキャンプを悩ませる埃を抑えるためにトラック20台分の砂利を運びました。埃は、食べ物やテントに入り込むだけでなく、渦を巻いて景色を皆同じにして方向感覚を失わせ、子供や家族は新しい家をさがせませんでした。女性は頭に被るスカーフで赤ん坊を包み、男性は必死になってぶら下がっているひもや持ち物を縛り付けました。難民たちは、バケツに入った砂利を自分たちのテントの周りに敷きました。

もうひとつのチャレンジは、寄付の分配の時に難民間に訪れます。非常に多くの難民がいるので、皆に十分に分け与えるのは難しいのです。

「生活環境をめぐる一連の暴動は何千ドル分もの甚大な損害をもたらしました。」とヨルダン・タイムスは報告しています。難民が倉庫とテントに火を付け、警備員がケガを負いました。

「ひとつの問題を解決したと思うと、キャンプは劇的に規模が大きくなるのです。」とカリン・アンダーソンは言っています。「だから、次の日は計画を変更するのです。チャレンジの連続です。」

これは、モルモンの夫婦が過ごそうと思っていた「黄金時代(老後)」とは、少し違いました。LDSの夫婦は、普通は定年後に、専任宣教師としてのボランティアに申し込むことができます。アンダーソン夫妻の場合、教会が召しました。ジムが、2012年の6月にバンク・オブ・ユタの頭取を引退することを発表するとすぐに、LDS教会の役員は彼と妻が伝道に行く気があるか尋ねました。後に中近東であることが告げられた時、彼らは躊躇しませんでした。ジムは2010年12月31日に退職し、一ヵ月後に伝道へと向かいました。

夫妻はは2週間、ユタ州プロボにある宣教師訓練センターに通い、ユタ州ソルトレーク・シティーのLDS教会人道支援センターでオリエンテーションを受けました。

彼らは、ベイルートに配属され、そこで14ヶ月間、衛生キットを配布し、女性刑務所にベッドを提供し、他の職務をこなしました。それからヨルダンに転勤になりました。

アンダーソン夫妻はモルモンの宣教師でしたが、布教活動はしませんでした。彼らの目的は、善意を育て、人々や地域、国と関係を築くことでした。モルモニズムとイスラムの共通点は、中近東で多くの人と結びつく助けとなりました。

遠く家族から離れ大変なことだったと、アンダーソン夫妻は認めます。彼らは、16人の子供と、彼らが伝道中に生まれた4人を含む35人の孫がいます。「このように伝道に来るとは考えたことがあったでしょうか。」と、カリンは尋ねます。「いいえ。」しかし、「わたしたちには、ボランティアになるために助けとなる経歴がありました。」と、彼女は言います。「奉仕をするという文化の中で育てられました。」

1.タイム・アンド・シーズンズ1842年3月15日号p732、リチャード・サヴァリーからの手紙に対する編集者の返答 ― ジョセフ・スミスがその定期刊行物の編集者だった。

2013年2月11日、キース・L・ブラウンによる