辛い時

2015年10月23日

前田美佳子

 アラサー(30歳前後の人)のわたしに離婚の危機が訪れた。もう何年も前のことだが、その当時結婚していたわたしは、あるとき家を追い出されて住む所がなくなった。そのまま相手側に押し切られて離婚した。絶望の淵に立たされた私は、ひどく落ち込み生きる希望を失いかけていた。そんなときに私の母が亡き祖母の話をしてくれた。初めて聞く祖母の過去にわたしは驚いた。それと同時に生きる希望をもらった。

農家

 祖母の名前は前田美可。大正15年に現石川県小松市長谷村に生まれた。19歳の時に近所の前田家に嫁ぐ。嫁ぎ先は農家だった。お日様が昇る前から田んぼに繰り出し家畜のように働き、お星様を眺めながら帰路に着いた。子どもには恵まれなかった。20歳のとき支那事変で夫を亡くして、国から遺族年金が支払われるようになった。亡き夫の遺族は祖母に金が払われて、自分たちには一銭も払われないのと腹を立てた。それが原因かは分からないが、夫の家族は祖母を家から追い出した。

 家から追い出された話は、生前の祖母の口からは聞いたことがなかった。自分の状況にそっくりなのでびっくりした。労働、戦争、死別。祖母はわたしが経験したことがないような辛い経験をしていた。わたしは負けてはダメだと思った。辛さで押しつぶされそうだったが、この辛さに負けてはダメだと思った。相手を悪く言ってはいけないし、悪くも思いたくなかった。祖母の生き方に励まされた。「私だけじゃないんだ、苦しいのは。」「おばあちゃんは自分にひどいことをした人の悪口言わなかった。」そんな気持ちが心に浮かんできた。

 わたしは苦しい気持ちを一生懸命浄化しようと思った。必死で祈った。辛い気持ちがなくなるように。そして相手を許して忘れることができるように。祈ったときに魔法のような力がわたしの心を癒し、嫌悪感から解放してくれた…わけではなかった。叫ぶような心からの祈りはすぐには叶わなかった。その換わりにわたしの人生にはいつも必要な助けがあり、よい友人や家族に支えられた。わたしは贖いの力についてもっと深く考えるようになった。贖いの力はわたしにはまだすべて解明できないかもしれない。ただわたしは贖いの力がわたしを助け、今も贖いの力によって生かされていると思っている。

 実は祖母は、わたしの本当の祖母ではない。祖母は夫の家を出た後によい出会いに恵まれて、恩師の上田先生の計らいで大学に進学していた。現日本女子大を卒業した祖母は、高校で家庭科教師として働いたのだった。

 夫と死別してからは再婚することもなく独身で通した。祖母の妹には女の子2人、男の子2人がいた。祖母は一番上の女の子、すなわち、わたしの母を養女に迎えたのだった。

 子宝に恵まれなかった祖母は、わたしの母を養女にすることによって、その養女が結婚して4人子どもを生み、4人の孫のおばあちゃんになった。学校を退職したあとは、自宅やデパートで和裁教室を開いた。家や土地を何件か購入した。自宅に親戚の老夫婦を引き取り数年ほど住まわせていたこともあった。親戚や知り合いの人が問題を抱えていると、仲介に入った。忙しいなかでも人のために尽くしていた。祖母がわたしや弟たちに口癖のように言ったことがあるが、それは「頑張って勉強したら人生が変わる」そして「なんとかなる」だった。

生きる

生きる

 わたしたちの人生には絶体絶命のように思われるような事件が起こる。それは実はあたらしい道への門だったりする。もちろん恩師や周りの助けなしには、祖母は何事もなし得なかっただろう。ただ可能性を自分で切り開いていった昭和の女性、前田美可はたくましいと思う。わたしも祖母のようになりたい。

 離婚してからわたしは大学に復学し卒業した。仕事をもらいギリギリの生活だったが自立した。14年暮らしたアメリカを去り、今は日本の実家に住みながら働いている。ただわたしは、自分にはもっと何かやらなければいけないことがあると思う。今のままでは人生を全うして死ぬことはできない。自分の才能を生かして可能性を切り開いていかないといけないと感じる。祖母はバリバリ仕事し、家庭を築いた。自立していて、よく人を助けた。わたしもそのようになりたい。祈り求め、行動するうちにそれは見えてくるのかもしれない。わたしに与えられた使命があるのならそれを全うしたい。まだまだ祖母の模範に従えていない気がする。でも、全力で生きていかなければいけないと思う。

美佳子さんはモアグッド財団の翻訳者です。ユタ州立大学から音楽療法学科で卒業しました。美佳子さんは静岡で育ち、しばらくはアメリカで生活していました。楽器を演奏し、編曲したり、作曲するのが大好きです。ハイキング、ジョギング、旅行をすることも好きです。