モルモン教福音のテーマについて驚くべき思いを抱いたことが何度もあります。心が開かれ、あらゆる情報が流れ込み、突如として以前は考えてもみなかった物事を理解できるようになるのです。そのあとに自分が岩のように鈍くなり、霊的な知識は翻訳されていない外国語のように思える時もあります。

 

霊的な知識とは何でしょうか?

霊的な知識とは、本質的に霊的なものの知識です。霊的なものというのが分かりにくい場合、未知のことと考えてください。霊的なものの知識はわたしたちが理解しない限り単なる未知なことになるのです。一度それを理解すれば、それはもはや未知ではなくなります。

未知なことの例は什分の一です。律法はシンプルです。什分の一には複雑なことは何もありません。主はわたしたちの収入(総収入)の10%を支払うなら、天の窓を開いて祝福されるとおっしゃっています。

天の窓とはどういう意味を主は言われているのでしょうか?わたしたちが10%を主に差し出したからといってどうやってわたしたちは仕事では肉体的に、あるいは経済的に、あるいは霊的に祝福されるのでしょうか?それは理性で考えて筋が通るでしょうか?

イエス・キリストこれはあらゆる戒めが提起するパズルなのです。主は規範を定められ、すべての規範にはそれに付随する約束があります。主への信仰を行使し、規範や戒めに従うのはわたしたちにかかっており、それから約束された祝福を待ち望むのです。主がどのようにされるかをわたしたちが理解する必要はなく、ただ主はわたしたちがしたことを理解されます。主が約束を守られ、わたしたちが従うなら与えると言われたものを期待すれば良いのです。

預言者マラキが教えたことを、マラキ3:10-12から読みましょう。これは主からの直接のチャレンジで、神がほんとうに真理の神であられるかが分かるために主を証明するためのものです。これは単純な律法であり、それは従うのは簡単なものの一つです。なぜならこれはほんとうに単刀直入であり直接なものだからです。主は、もしわたしたちがこの特別な行動を起こすなら、主はこの祝福の長いリストをくださると約束されています。

「わたしの倉に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。

わたしは食い滅ぼす者を、あなたがたのためにおさえて、あなたがたの地の産物を、滅ぼさないようにしよう。また、あなたがたのぶどうの木が、その熟する前に、その実を畑に落とすことのないようにしようと、万軍の主は言われる。

こうして万国の人は、あなたがたを祝福された者ととなえるであろう。あなたがたは楽しい地となるからであると、万軍の主は言われる。」

古代イスラエルは農業国家なので、彼らは農業を生業としていました。そのため農産物の祝福について特別に触れておられるのです。農民にとって分かりやすいものは、枯れたり、虫や病気などでだめになった農産物です。

主は良い農産物を与えてくださる以上のことをされ、この律法に従う人々は、すべての国々から祝福された人々と呼ばれるほどに民として繁栄するということを約束されています。その国全体の状況や繁栄しているさまは、近隣の国々が他のすべての国よりもさらに繁栄しているのは何かが違うと思わしめるほどのものとなるでしょう。

請求書ですから什分の一を支払うことで霊的な知識はどこから来るでしょうか?その律法に従ったために什分の一の証を得た人に聞いてみるのがいいです。どうやって祝福されてきたかについて説明するのは多くの場合難しいかもしれませんが、彼らは説明できないほんとうにたくさんの祝福を受けてきたので、什分の一を払うのをあえてやめるなど説明できないのです。

わたしが什分の一を払ったとき、不思議なことが起こりました。自分の収入を計算し、請求書と比べました。わたしの選択は家賃を払うか什分の一を払うかのどちらかでした。あるいは請求書を払うか什分の一を払うかのどちらかでした。わたしは他に支払うべき請求書があっても、いつでもなんとかして什分の一を払いました。わたしは数学の天才ではないかもしれませんが、小さな奇跡が起きたときは分かります。主は計算されるときには、明らかに普通の数学とは違うものをお使いになるのです。

わたしは伝道中の宣教師を支援したときに同じような祝福を経験しました。はっきりとこれ、と言うことはできませんが、2年間の間、我が家は通常とは違う祝福を受けたという事実を知っています。わたしたちは霊的に、社会的に、家族として普段よりも「栄えた」のです。それは幸せな数年間でした。

これは霊的な知識の一つの形であり、人生においてあなたには分からない方法で主は作用されるという理解なのです。このようにして、わたしたちの生活に主の存在の啓示を受けるばかりでなく、以前はなかった新たな不思議がわたしたちの前に提示されたのです。主はどのようにしてされるのでしょうか?個人的にはわたしは自分が主を喜ばせており、主はわたしを祝福してくださると知ることに、さらに興味を持っています。それは主がわたしに関心を持っておられ、日々の個人的な行いに対して主は敏感に気づいておられるということを示しています。これによりわたしは主にもっと近づきます。

 

霊的な知識はどこからやってくるのか?

霊的な知識は戒めに対する従順の結果もたらされます。わたしたちは聖文を読み、それが自分の人生にどのような意味を持つのかよく考えるように言われており、その結果として感じる気持ちが霊的な知識なのです。

祈る霊的な知識は聖霊を通してもたらされます。神会における聖霊の役割はすべての真理を証し、すべての真理を明らかにすることです。わたしたちが真理を理解して、それに従って生活するのと同じくらい速く聖霊はそれを明らかにしてくださいます。しかしわたしたちが学ぶためには求めなければなりません。わたしたちが什分の一の律法、知恵の言葉、その他キリストの福音のあらゆる律法に従って生活するとき起こります。

わたしたちが戒めに従って新たな知識を求め、古い戒めに従って生活することを選ぶとき、主がどのようにして従順を通してわたしたちを祝福されるかについてさらに学ぶ機会への扉を開くのです。

わたしたちが慣れなければならない一つのことは、個人の啓示を受けることができ、そして受けるようになっているという考えです。啓示というとわたしたちは偉大な預言者たちが示現や天使のような使いからの訪れを受けることを考えます。そうです。それは啓示の一つの形です。しかし啓示はわたしたちに明らかにされた何かを受けるということを意味します。たとえばそれが今まで考えたこともないその車を発進させる方法についての考えであるなら、それは啓示の形として不足はないのです。

わたしたちが聖霊の賜物を受けたという事実の効力により、以前は分からなかった何かを理解できるように聖霊はわたしたちを促し、心を開きます。これが啓示です。それがさらにあれば、もっと嬉しいでしょう。

これが霊的な知識がやって来る場所です。聖霊は霊的な知識を魂に注ぐ注入器のようなものです。聖霊はわたしたちの心を開き、理解力を広げますが、反対も言えます。もしわたしたちが戒めに対して従順でなく、従うことを止めてしまうなら、聖霊は遮断され、わたしたちの霊的な物に対する理解力をしぼませてしまいます。

霊的な知識は与えられたときと同じように、わたしたちから簡単に取り去られてしまうということを理解し覚えておくのは大切なことです。マルコ4:24-25ではその原則が書かれています。これは聖書のほかの部分にも繰り返されていますが、ここに教訓の一つの例があります。

福音を学ぶ「また彼らに言われた。『聞くことがらに注意しなさい。あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられ、その上になお増し加えられるであろう。

だれでも、持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。」

これは霊的なものについての律法です。従順を通してわたしたちはさらに知識を与えられますが、同じように不従順であれば、わたしたちは知識を失うのです。人がたくさんの知識に到達しても誰もそれを奪わないという静止状態、あるいは硬直状態というのはないのです。霊的なものという面で、もし得ていないなら、それは失っているということです。これが自然の摂理です。だからわたしたちは毎日聖文を学び、毎日祈り、自分の行いすべてにキリストを覚えるように言われているのです。

これは実際わたしたちにとって守りとなります。もしわたしたちが何かを理解するなら、わたしたちはそれに対して責任を持つことになります。わたしたちが理解しないなら、わたしたちはそのことについて何ら責任を問われません。残念ながら、わたしたちは無知では救われないのです。主はわたしたちが常に主を求め、さらに学ぶように期待しておられます。

 

わたしは自分がどれほど知っているかを、どのようにしてコントロールできるだろうか?

霊的なことについて、わたしたちがどれほどたくさん、速く学ぶかはわたしたちがどれほど望むかにかかっています。もし何かが真実であるとほんとうに知りたいなら、わたしたちは原則に従い、それに関連した約束を試してみる必要があります。すべての戒めにはそれにつながる約束と祝福があります。戒めはやみくもに与えられるものではないのです。それぞれの戒めにはそれに伴う目的と祝福があるので、戒めは与えられるのです。

わたしたちが聖霊に近づくか、人生から聖霊を追い出すかはわたしたちにかかっているのです。それはすべてわたしたちが日々、毎時間に選択することにかかっているのです。

わたしたちが福音の未知のことを福音の知識に変えたいなら、自分でコントロールできるのです。一晩で変わることはありませんが、それは変わるでしょう。

霊的な知識は、わたしたちがそれを受け、それに従って生活するように備えるときにだけもたらされることを忘れないでください。一度受けたら、わたしたちはそれに従って生活しなければなりません。さもないとそれは取り上げられ、前よりも暗い場所に取り残されてしまいます。これが霊的な進歩のルールです。でもそれはわたしたちにかかっているということを知るのはいいことではありませんか?もし自分が福音の原理を理解していないなら、既に知っているすべての戒めに従うことにより、それが明らかにされるように努力することができます。知識を求めて祈り、活発に理解を求めるとき、聖霊はわたしが自らを受けるように備えたのと同じくらい速くそれを与えてくれます。上限はありません。わたしたちの幸福、救いについての神の計画は、わたしたちが理解できるものですが、わたしたち自らがそのために備えることができるのと同じ速さでしか理解できないのです。

 

ケリー・メリルは悠々自適で、mormonbasics.comに投稿しています。ハワイで妻と暮らし、ここ20年ほど冬の寒さを心配することはありません。キリストの福音について書くことを喜びとしています。福音について書くことは、教会の会員や会員でないキリストの福音、キリストの教会について知りたいと思う人々に対する個人的な伝道の機会となっています。