マケイラ・プロクター姉妹は明日、アフリカのザンビアでの伝道を終えて母国に帰還します。18ヶ月にも及ぶ奉仕を通して彼女が学んだことを手紙に書きつづってくれました。
伝道に出る前の自分と、伝道を終える自分
伝道の召しを受け取った日は、わたしの人生で最も幸福な日でした。父からの「召しが届いたよ」と短いメールを受け取ったとき、わたしはBYUのディボーショナルでヘンリー・B・アイリング管長の話を聞いていました。申請書を出してから、まだ1週間しか経っていなかったのでとても驚きました。家に着くまで、わたしはあれこれ考えていました。わたしを待つ、18ヶ月について想像せずに入られませんでした。
親しい人たちの前で召しの手紙を開けたとき、手紙の一行だけを見えるようにし、その下を隠そうとしましたが「ザンビア・ルサカ伝道部」と書かれた文字を見せずにいられませんでした。感動で息をのみました。その忘れられない瞬間に、わたしはこの先に待ち受けている、人生を変えてしまうような経験をすることを予測も理解もしていませんでした。勉強したり楽しい空想にふけったりしても、わたしはこれから何が起こるかについては無知のままで、唯一頼れるのは信仰だけでした。
家族にお別れのハグをするピカピカの宣教師に、これからどんな事が待っているのか予想できる人はいないでしょう。あなたが愛する場所を離れ、輝かしいけれども霧がかかった運命へと歩き始めるときに、「わたしの福音を宣べ伝えなさい」にどんなに時間を費やして準備したとしても、これから先に待ち受ける魂が限界まで引き伸ばされるような月日のために、心と精神を備えることはできません。わたしはエスカレーターに乗って、家族に最後のお別れのために手を振ったときのことを決して忘れないでしょう。御霊が「あなたはあっという間に戻ってきて、このエスカレーターに乗って家族に再び会うでしょう。」とささやきました。本当にあっという間に、あと2日でわたしは同じエスカレーターに乗り、家族の腕の中に戻ります。
エスカレーター。輝かしい伝道を締めくくるのに、なんてちっぽけでありきたりな物でしょう。ただソルトレイク空港の深い所で、18ヶ月間過ごしたと想像するのは簡単かもしれません。しかし、あのエスカレーターに乗って行ったあの女の子と、下りのエスカレーターで降りてくる女性が同じでないことを皆は確信するでしょう。
かつてわたしは、比較的盲目に伝道へと出かけていきましたが、今は実際に伝道を経験をして戻って来ます。召しの手紙に書かれていた目的地は、もう不明瞭な場所ではありません。場所と人々と出来事は、わたしの魂の中に織り込まれています。わたしが、母国から遠く離れた未知の世界へと旅立ったときに、神がこれほどまでに大きな祝福を与えてくださると想像することはできませんでした(アルマ書26:1)。
試しを通して学んだ慈愛と喜び
わたしの伝道の経験は、わたしの体、心、精神の核心までわたしを試しました。わたしは、あまりにもたくさん拒まれたので、たじろぐこともなくなりました。電力や水道がないまま何日も過ごしたことがあるので、もはやそれは落胆することではなく、普通のことです。わたしは、リロングウェの埃っぽい道を歩き、雨が降るブランティアの山を登り、ルサカの門をたたき、ルアンシャの暑さと「地獄の火」(笑)の熱に悩まされたこともありました。深い絶望にいる人々に出会ったり、わたし自身も悲しみでひざまずいたこともありました。しかしそのすべての中で、わたしは愛する救い主を深く知るようになり、理解しがたい喜びを感じました。
わたしの最大の喜びは、心が感動し、罪を悔い改め、支部が再び活性化され、人々の目がキリストの知識の光によって輝くといった、変化の奇跡を見ることによってやって来ます。求道者が初めてモルモン書を開いたり、ひざまずいて熱心に祈ったり、不活発会員がかつて感じていた御霊を思い出し、再び小さな集会場に現れたり、教会員が永遠の可能性に一歩近づき、無視無欲の奉仕をするのを見るときに満足感が得られます。わたしは、キリストのためにすべてを犠牲にし、奉献された指導者たちの信仰により、霊感を受けてきました。わたしは、家族や友達からの迫害にもかかわらずバプテスマを受ける求道者たちを見て、感動させられました。そして、わたしはわたしの中で贖いの奇跡が働くのも見ました。
わたしが伝道中に学んだ、すべてを覆う他の教訓は、愛です。わたしの不完全でしばしば高慢な心は、イエス・キリストの無限の愛によりやわらげられました。嘆願し、学び、涙を流し、汗を流し、素晴らしい人々のために犠牲を払う真っ只中に、わたしは、贖いという、最も無限の愛で絶頂に達した主の業において、救い主が経験されたことのほんのわずかを味わいました。
もし慈愛が、キリストの純粋の愛であるならば、慈愛の中心には贖いがあります。しかしながら、真の慈愛を持ち得ることができる人はだれもいないでしょう。真の慈愛である贖いに最も近づくには、神の子供たちのために犠牲を払うことです。わたしたちが犠牲を払うことによってのみ、わたしたちは、主のようになることができます。
マラウイ人とザンビア人は、わたしに、心から愛し、自由に与えることを教えてくれました。彼らは他人ではなく、わたしの兄弟姉妹です。彼ら自身貧しく、多くの物を必要とするにもかかわらず、わたしに心から与えてくれました。わたしは、そのような犠牲を受けるに決して値しないと感じました。永遠で不変の愛は、犠牲なしに存在しえません。わたしは、何ヶ月も彼らのために捧げてきたので、彼らはわたしの家族のような存在です。マラウイ人とザンビア人の文化でわたしが大好きなものの一つは、お互いを家族のように呼び合うことです。数え切れないほど、タクシーの運転手が「姉妹!タクシー!」と言ったり、子供がくすくす笑いながら「おばさん、ご機嫌いかがですか?」と言うのを聞きました。
初めて会ったときでさえ、年をとった女性を自分のおばあさんと呼び、中年の女性を自分のお母さんと呼びます。子供たちは、自分の母親の姉妹たちをお母さんと呼び、父親の兄弟たちをお父さんと呼び、ほぼすべてのいとこたちを兄弟姉妹と呼びます。彼らは、わたしたちは神の家族として永遠につながっていることを、はっきりと見て理解できるように教えてくれました。わたしは、ただ他人を愛したのではありません。彼らはわたしにとって、とても大切な存在になりました。
神への献身によって得た永遠への観点
わたしは、今週の出来事をすべて書くつもりはありませんが、わたしの愛するマリア・カペンブワ姉妹がバプテスマを受け、教会の会員として確認されたことについて書きたいと思います。わたしのこの女性に対する愛は、大きすぎてあふれそうです。彼女は、短期間でよく成長しました。わたしは、彼女がバプテスマの服に身を包むと、彼女の表情がどんどん輝いていくのを見ました。わたしは、喜びで沸きかえりそうでした。バプテスマの後の彼女の証は、簡潔で甘美なものでした。福音が彼女を変えました。わたしたちが昨日、最後のレッスンを彼女に教えたときに、わたしたちは皆涙を流しました。彼女は、わたしを慰めようと最大限努め、「心配しないで。わたしたちはいつか神殿で会えるでしょう」と言いました。神殿は、すでに彼女にとって次の目標なのです。
わたしたちが、カミレンダを通って、カニエシャ家族とのお祝いの夕飯のために、彼女と歩いていたときに、酔った男性たちが、教会について下品な言葉を彼女に向かって言いました。彼女は、教会を自信を持って弁護し、自分は教会員であることを宣言しました。庭の手入れをしている不活発会員を通り過ぎたときに、わたしは「あの人は、2008年から教会に来ていなかったけれども、今日彼は教会に来てくれました。奇跡です!」と言いました。すると彼女は「わたしは、絶対そのようなことはしません。わたしの最後の日まで、教会に行き続けます」と言いました。実に、彼女はわたしの伝道全体の中でも最高の奇跡の一つでした。そして、これ以上の「ハッピー・エンディング」を想像できません。キリストは、本当に、わたしたちの最も大切な夢をかなえてくださいます。
わたしの心の最も敏感な感情は、これらの人々によって、そして伝道での経験によって包まれています。わたしが家に戻ったら、「わたしの伝道は、わたしにとって重要でした。この精錬される経験をした後でも、わたしはまだ不完全です」と主に泣き叫ぶことでしょう。わたしたちの人生の終わりに「わたしの人生は、わたしにとって重要でしたが、それでもわたしはまだ不完全です」と似たような叫びをきっと言うことでしょう。わたしは、救い主がわたしの最大の不完全さの埋め合わせをしてくださることに感謝しています。わたしは、専任宣教師として終わりが近づいていますが、これは、生涯にわたる弟子として、またキリストへの献身が始まるにすぎません。
これまでの18ヶ月間、わたしは、伝道の業のために、歩き、話し、食べ、眠り、呼吸してきました。わたしは、誠実に、この業のために自身を捧げてきたと言うことができます。わたしは、伝道前の自分は誰であり、伝道後の自分はどういう人になるかは、まったく分かりませんが、わたしが「余分」なものをすべて捨て、わたしの神聖な独自性の永遠の部分を深く探求することにより、美しいものを発見することができました。家に戻ってから、 わたしは、小さな自己認識の危機を経験するかもしれませんが、その経験は、さらに自分を発見することへと導いてくれることでしょう。永遠は公平であり、「死」は、わたしの次の大きな冒険です。(宣教師の隠語で、伝道を終えることを意味します。)
わたしは、宣教師でいることが大好きです(これからも、常にそうです)。わたしは救い主を愛しています。そして、家族皆を愛しています。皆の愛と支えに感謝しています。
また会う日まで。
この記事はMichaela Proctorによって書かれ、ldsmag.comに投稿されました。