もう二度と繰り返したくないと思うような数年が、わたしたちの人生にはあります。しかし、そんな数年も過ぎ去っていき、そこで得た教訓は未来への祝福となるのです。 —マージョリー・ペイ・ヒンクレー
わたしは十代の数年をもう一度生きるのは嫌です。実のところ、二十代前半ももう一度繰り返したいかどうかと聞かれるとわかりません。これらの年にわたしは多くの間違いを犯し、そのツケをしっかり払ってきました。一方で、わたしの人生でとても役にたった教訓は、この時期に得たものでした。わたしの祖父はよくこう言っていました。“雄ロバだって頭を二度ぶつけることはない。”言い換えれば、つらい教訓を学び、二度と繰り返さず、先に進め、ということです。
繰り返したくない時期から学んだこと
わたしが十代の時、すべての人がわたしの信頼に値するわけではないことを学びました。それはとても学ぶのが難しい教訓でした。わたしたちは、会う人すべてに親切にすることができますし、そうするべきです。しかしそれはいつでも人を信用するべきだという意味ではなく、自分自身を道に投げ出して踏みつけられるに任せるべきだと言う意味でもありません。親切と慈愛は、同じ意味をもってはいませんし、馬鹿正直さと愚かさについてもそう言えると思います。すべてのひとを友人のように扱うのはとても素晴らしいことですが、信頼は勝ち取られるもので、二方通行道路のようなものです。わたしはここに至るまでいくつか失敗をしましたが、この教訓はわたしがより良い、より長続きする、そして何より、一方通行ではなく両者から両者に向かう友人関係を築くのを助けてくれました。
20代の初めは、心酔することと愛することは全く違うものであることを教えてくれました。わたしはまた、愛には大きな責任が伴うことも学びました。20代前半のある年は、わたしにとって完全に屈辱の年でした。もしわたしが“やり直し”をすることができるなら、わたしはその機会に飛びつくでしょうが、人生はそうはいきません。わたしたちは悔い改め、落ちたピースを拾い集めて、前に進むのです。悔い改めの悲しい部分は、どんなにあなたが心から望もうとも、時にあなたが他人の心に招いた痛みは消し去ることが不可能なこともあるということです。あなたは、ほとばしる蛇口の水をバンドエイドで止めようとしたことがありますか?どこに貼ろうと、水は止まりません。時々、わたしたちは感傷的な傷で人を傷つけてしまいます。そのほとばしる血を止めるのに、バンドエイドは役に立ちません。そこであなたは物事を正すために出来る限りのことをしますが、あるところまで来たら、あなたはそのまま前へ進むしかないのです。鍵は、間違いから学んで、繰り返さないことです。
大切なのは繰り返さないこと
教訓を学ぶ素晴らしさは、その教訓が一生あなたについてまわり、あなたをより良い人間へと変えてくれることです。あなたが同じ間違いを繰り返さない限り、それらの教訓は本当にあなたの人生を祝福してくれます。わたしの十代のころの失敗からの祝福は、一生の友達、わたしが信頼し、頼り、一緒に楽しみ、秘密を打ち明けて、愛することのできる人々です。20代の前半は、わたしを愛し、どんな時もわたしのそばにいてくれる夫と子供たちをくれました。もしわたしが20代前半で学んだ教訓を学ばなかったとしたら、夫と出会う機会もなかったでしょう。妻として、また母としても、辛い時期がありました。それは出来るなら間違いなくやり直し戻りたいと思う瞬間です。あの時もっと忍耐強く、もっとリラックスしていたらと思います。もしかしたら、あの大切な瞬間に、子供にもっと違ったことを言えたら、物事はもっとよかったかもしれません。あの場面で違う行動をとっていたら、子供がよりよい選択に流れるように手助けできたかもしれません。そして、もっと我慢していたら、と思う瞬間は沢山あります。それから、もっと率直であるべきだった、と思う瞬間も少なからずあります。しかし、これらの中で学んだ教訓もあり、それは同じような場面にあった時にわたしを助けてくれます。
わたしたちが生きる毎日は、わたしたちがなりたい人物に近づけ、自分自身をかき集めて、埃を払い、全く新しい一日を始めさせてくれます。それ自体が、奇跡です。それは神からの贈り物です。わたしたちは一日を始め、教訓を生かして自分自身を過去の自分よりより良い自分にします。それが神がわたしたちに与えてくれた計画ではないでしょうか?わたしは、十代のころの自分や、20代前半の自分で立ち止まる必要はありません。教訓を学んでより良い自分、自分が誇れる自分になるのに60年かかったっていいのです。
人生をかけての学び
この60年で、わたしはすべて学びきったでしょうか?そうだと言えればいいのですが、答えはそうではありません。わたしは今でも毎日わたしがなりたい親切な人になるために悪戦苦闘しています。人生とは学びで、神が、わたしが学ぶべきことをすべて学んだと思った時に、彼はわたしを家へ連れて帰ってくださると思っています。奇妙なのは、時が過ぎるにつれて、教訓が一時的なものからより霊的なものへと変わって来ていることです。怒った時に誰かに向かって叫びたい衝動を抑えることに四苦八苦する変わりに、わたしはその日の朝読んだ聖句を思い出すことで、心がより幸せなことに集中していられるように努力しています。それこそが、究極の祝福です。
この記事はTudie Roseによって書かれました。