なぜ良い人にも悪いことが起こるのでしょうか。この疑問は書物に書かれているものの中ではもっとも古いものの一つでしょう。そしてだれにもこのことに対する良い答えがありません。子供ががんになり、大学生が誘拐され、結婚が失敗に終わり、台風が列島を襲っていますから、神はこのような悲しみが存在する中でどこにいらっしゃるのだろうかといぶかるのも無理はありません。神がすべての良いことを司っておられるのならば、なぜこの世はあまりにも多くの悪い事で満ちているのでしょうか。

1. 完全な世界における完全な真理

確かに、神は完全であられます。しかし、この世とそこに住む人々は完全ではありません。神が私たちをここに送って下さったとき、私たちに道徳的な選択の自由を与えて下さいました。つまり、善悪を選ぶ能力です。この意味するところは、神は人がこの自由を行使するのを妨げられないということです。たとえ、そのような選択が害を及ぼすような場合についても当てはまります。時には私たちの選択が自分自身にとっては正しいことでも、そうすることが他の人を傷つける(人間関係をだめにするとか)こともあります 。
この世界も不完全です。自然災害は通常のことで、地震、ハリケーン、山火事、洪水、津波、台風などが起こります。聖書の中で神は時々天災を使って悪い民族を滅ぼされました。しかし、現在起こっていることを見ると、このことはいつでも当てはまるとは限らないようです。私たちに出来ることは、そのような状況に出来るだけ準備することだけです。そして、必要としている人たちのために時間と、金銭と、供給物を出来るだけ提供することです。

2. 私たちには逆境が必要

この世に来た目的が選択の自由を行使することであるなら、これらの選択に反対のものがなければなりません。モルモン書(古代アメリカの文明を年代毎に記録した古代の聖典)には「すべての事物には反対のものがなければならないからである。(中略)もし反対のものがなければ、義は生じ得ないし、邪悪も、聖さも惨めな状態も、善も悪も生じ得ない。」(2ニーファイ2:11)と述べられています。反対のものがないと選択することが出来ないのです。
もし悪いことが自分の身に決して起こらなければ、変わったり、悔い改めたり、神を探し求めるという必要性を自然に感じることはないでしょう。逆境を一度も経験したことがなければ、幸せや平安が何であるかも、本当に知ることは出来ないでしょう。逆境を経験するとき、私たちは救い主についてもっと尊いしかも現実的な方法で知るようになります。
末日聖徒イエス・キリスト教会(はからずも「モルモン」教会とも呼ばれる)の大管長会の第一顧問であるヘンリー・B・アイリング管長は逆境について次のように述べています。
「私たちはみな逆境に対処しなければなりません。人生のある時には、結構長く生活がほとんど苦難もなくスムーズに進んでいるように思われるときがあるかもしれません。しかし、快適な生活が悩みに変わり、良い健康が終わりを告げ、不運がやって来ます。とりわけ、快適なときが暫く続いたときは、苦難の到来や物質的な安全が失われることにより、恐れを抱き、時には怒りを覚えます。」(ヘンリー・B・アイリング、「逆境」、エンサイン、2009年5月号)
だれもこの世に生きて、悪い事をま逃れることは出来ません。これはこの世の経験の一部です。そして神はこれらの経験の一部始終において共に居て下さいます。

3. 私たちは神に頼ることを学ぶ

時々悪いことが起こると、感謝してそれを受け入れることは難しいものです。時には私たちは怒りを抱き、恐れ、不公平だという念に駆られます。このように感じるのは普通です。しかし、一番生産的な状態ではありません。私たちがチャレンジや悲劇のさなかにあるとき、天の父はいつも私たちとともに居て下さり、私たちが御父の愛を拒むときでさえ一緒に居て下さいます。それに対して、もし私たちが主の慈愛に自分の身をゆだねようと選ぶ時には、主にもっと近づくことが出来、天父が私たちに抱いておられる愛をもっと十分に感じることが出来ます。
「今日私が目的としていることは、天の父と救い主が生きておられ、お二人は全人類を愛していらっしゃるということをあなたがたに確信していただくことです。私たちが逆境や苦難に遭わなければならないというその機会そのものが、お二人の尽きることのない愛の証拠なのです。神は私たちに死すべき状態で生きるという賜物を与えて下さり、そうすることで私たちは神の賜物のうちの最大のもの、すなわち永遠の命を得られるように備えることが出来るのです。そうすれば、私たちの霊は変わります。試練を通して、私たちは神が望んでおられることを望むことが出来るようになり、神のように考えるようになり、かくして限りない子孫をいただき、彼らを教え導くという神から委託された役割に備え、永遠の生命においてとこしえに生きることにふさわしく成長できるようになるのです。」(ヘンリー・B・アイリング、「逆境」、エンサイン、2009年5月号)

4. 逆境は私たちに同情心を育む

この世で私たちが養うべきもっとも大切な特質は救い主が生ける模範で示して下さったもので、すなわち愛、親切、同情心、慈悲です。自分やほかの人たちの生活の中で経験する逆境によって私たちはこれらのより優しい特質を追求する機会が与えられます。この世の中で悪いことが起こらなければ、人に与え、助けを受け入れ、あったことのない人への同情心を抱くなどということをどこで学べるのでしょうか。試練によって分裂が生じる可能性もありますが、私たちの地域社会で、国家で、世界中で、それを団結する転機にすることも可能です。
逆境なくしては、私たちの世界は平坦なものとなり、進歩がなくなります。逆境によって人の精神は成長し、克服し、そして信じるようになります。困難に直面することで、私たちはそうでない場合よりはより良い民になります。悪いことが起こった時に、そのことで大喜びする必要はありませんが、イエス・キリストによって私たちは主にもっと似た者になることが出来ます。

5. 私たちは神が平和のときも試練の時にも共におられることを思い起こす

悪いことが起こるということは神が私たちを見捨てられたということではありません。災害は神がおられないという証拠ではありません。困難は、それが個人の怪我や病気であれ、広範囲に起こる大惨事であれ、実際に愛ある天の父の存在を支持するものです。私たちが何者であれ、あるいはどこに居ようとも、私たちがそのような逆境の前に、間に、あるいは後に、力や慰めを主に願い求めることが出来るのです。事実は私たちのだれもが逆境を経験します。一人でもそれを乗り越えることが出来ますし、あるいは神とともにそうすることも出来ます。私たちが天の父とともに困難に対処する時に、他のどこにも見いだすことの出来ない特別な平安が得られます。イエス・キリストは私たちのすべてのために苦しまれ、そして主はその犠牲によって私たちの苦しみを荷なって下さり、私たちが他の人を助けたり慰めたりできるようにして下さいました。イエス・キリストによって私たちはより良い人間になることが出来ます。
神は、時が良くても悪くても、私たちとともにおられます。私たちが成長し、変わることが出来るようにつらい時が起こるのを許しておられます。時にはこれらの試練はほとんど堪え難いものです。時には愛する者がこの世を去ってしまうこともあります。イエス・キリストのおかげで、亡くなった友や家族にこの世の後で逢うでしょう。救い主のおかげで、逆境の中でも失望を逃れることが出来ます。というよりむしろ、逆境は愛がありとこしえに生きていらっしゃる天の父についての証拠です。

 

この記事はcharlotteによって書かれました。