正直なところ、わたしはユダに寛容な気持ちを抱いていませんでした。しかし聖典を読むにつれて、彼に自分を重ねるようになりました。キリストを裏切った男のことを読んでいくうちに、自分の罪がまるで合唱のように策略と裏切りの旋律を静かに奏で始め、しだいに罪悪感から開放されていくようでした。イスカリオテのユダがイエスにしたことを大目に見たり、見逃すつもりはありませんが、わたしは彼を裁くこともできないのです。

イスカリオテのユダから学ぶべきこと

幸い聖文には、イスカリオテのユダに実際に起きたことをあいまいに表記しているので、彼の罪を取り上げて、それが破滅の道へと導いたと言うことはできません。事実サタンは選ばれし者をも惑わすのです。わたしたちは自ら不従順を選び、破滅へと導く考えや感情におぼれてしまいがちです。これが滅びの道をたどった主の弟子から学ぶべきことなのです。

奇妙なことにわたしたちは、イスカリオテのユダについて話したり聞いたりするうちに、まるでユダの裏切りの物語を知り尽くしているような錯覚に陥ってしまうのです。ごくわずかで貴重な文節には、主のなされること、これからされようとすることにユダが不満を抱き、またキリストを裏切っている様子が描写されています。ユダの破滅の一部始終に心を煩わされなくてよいことは、なんと慈悲深い恵みなのでしょう。以下はイスカリオテのユダの物語からわたしたちが学べる5つのレッスンです。 

1.すぐに裁かない

マタイ26:7-9にはイエスのもとに、高価な香油が入った石膏のつぼを持ってきた女性について書かれています。彼女は救い主が食事をされている時に、主の頭に香油を注ぎかけました。その香油を高額で売って、貧しい者たちに分け与えることもできました。

「一人の女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使いをするのかこれを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに。」

何人かの弟子は、この敬虔な行動を明らかな浪費と見なし立腹したのですが、イエスは女性の行動を弁護しました。しかしユダにとっては我慢ならない出来事だったのでしょう。ユダは部屋を去り、裏切りを実行に移しました。

あまりにも早く裁き、非難し、すぐ行動に移してしまうことは物事をさらに悪い方向に向けます。主は、弟子に優先順位が間違っていることを教えようとされました。彼らは香油の価値だけを考えていました。主の偉大さについてはまったく無頓着だったのです。彼らの傍にはいつも貧しい人がいるでしょうが、主はもうすぐ彼らのもとから去ろうとされていたのです。

イエスは、この行動は神を敬う行動として永遠に語り継がれるであろうと言われました。油を注いだことは、翌日に控えている主ご自身の埋葬のさきがけであると言われました。

わたしたちはより忍耐深く、怒るに遅く、裁くに遅く、急いで赦し、他者の行動に寛容であるべきことを学べます。

2.進んで指示を受ける

弟子全員がこの出来事に立腹したようですが、ユダだけがそれをグループから離脱する要因とみなしたのです。彼の離脱は神の御子に従い導かれることに終止符を打つことを示唆していました。

この結果から次のことを学ぶことが出来ます。わたしたちがモルモン教とも呼ばれる末日聖徒イエス・キリスト教会神権指導者に疑問を持ち、彼らの決断を勘ぐったり、こうしたほうが良いと意見を述べたりする時に、背教の道を歩き始めていると言えるでしょう。この場合、ユダはビショップを批評していたのではなく、神の決断を非難していたのです。

3.自分のほうが知っていると思わない

自分のほうがよく知っていると思うようになると、他人の指示を進んで仰がないようになります。高慢で傲慢になります。神に指導者として選ばれた者よりも、自分のほうがより優秀だと感じるときに、わたしたちは真っ向から神と対抗することになるのです。

確かにあなたは、教会指導者よりも知識があるのかもしれません。教育を受け、賢いのかもしれません。しかしそれは重要ではありません。わたしたちは皆、この世において従順で、謙遜になり、教えを受け、互いに忍耐することを学ばなければなりません。他者の弱点を赦し、それと同様に彼らもわたしたちを赦すように願い求めるのです。

3.敵意を根付かせない

ユダがゲッセマネの園でイエスを裏切った時に、彼が救い主を確認する時に用いた接吻は、愛情を示す以上のものでした。ギリシャ語で使われる動詞 (Kataphilein)は不変の、情熱的な(激しい、ただし性的ではない)やさしい接吻を意味します。このような接吻は公の場で、いまや敵となったかつての友に与えるものです。それは見透かされたうそ、皮肉を意味する接吻なのです。

おそらくあなたは、誰かがユダの接吻について説明しているのを聞いたことがあるでしょう。これはもっとも重大な裏切りです。ユダは力ずくでもイエスがなされることを阻止したいと思い、サタンに身を委ねたのです。わたしたちは彼の行動の要因を知ることはできませんが、ジョセフ・スミス訳(JST)の中で、ユダはイエスから「無実の血に気をつけよ。」と言われました(JSTマルコ14:30-31)。ユダの身に何が起こっていたのにせよ、「ユダは主から退き、主の言葉に憤った。」とあります。

教会指導者の言葉に傷ついたことがあるでしょうか?そんな時はどうしますか?ジョセフ・スミス訳のマルコ14:36-38によると、イエスと共にゲッセマネに出向いた弟子たちは、その晩起きたことにたいへん心を動かされたようです。そこにはこのように書かれています。

「弟子たちは全く驚嘆し、こころが重くなり、心の中でこれが本当にメサイヤであるのかと驚き怪しんだ。」

他の弟子とユダの違いは、ユダは疑心が憤りや敵意となり渦巻くのに身を任せてしまったことです。他の弟子たちは、イエスが最も助けを必要としている時に、主を置き去りにして園から逃げ去りましたが、彼らは疑心を怒りや憤りに変えるようなことはしませんでした。

気分を害することは簡単です。和解を求めることの方がよっぽど難しいのです。主が自分を不当に扱ったと感じる時に、あなたは主と和解しようとしますか?それとも敵意が心の中で大きくなり、仕返しを望むようになるのでしょうか?

5.出し惜しみしない

女性がイエスに香油を注いだ時に、誰もが高価な香油を無駄にしたことに立腹しましたが、それは香油を売って得た利益で助けた名も知らぬ貧しい者の方が、イエスよりも重要であると言ったも同然だったのです。彼らは、主はそのような高価で贅沢なもには不釣合いであると考え、ましてや主に捧げ者をした女性を称えることもしなかったのです。

聖文の中でユダは、何度もけちな男として描かれています。それは彼が使徒の財布を握っていたからであり、わたしたちの誰もが家庭や職場で財政が厳しくなると、財布を握っている人を非難した経験があるからでしょう。

わたしたちはユダのことをけちな人だと考えてしまうかもしれませんが、自分の物惜しみぶりを振り返るべきだと思います。わたしが若かった頃、わずかな現金しか持っていなかった時は、稼ぎが多くなった時よりももっと分け与えていたと思います。豊かになるにつれて、どんどんけちになっていったことに気づいた時はまるで啓示を受けたようでした。本当に貧乏だった時は、貧困とは何かを理解していたので、他者の痛みにも敏感でいられたのです。

自分の利益を差し置いて他者に捧げることができますか?モルモン教の会員として与えられる奉仕の機会に熱心に携わっていますか?それとも、その機会から逃げていますか?主から与えられたものを、それがお金であれ、時間、奉仕、態度であろうと独り占めしていませんか?

主が地上におられた時から、人間の感情や人間関係はほとんど変わっていません。ユダや他の使徒たちのように、自分の考えや心の弱みに負けそうになります。イスカリオテのユダから学び、彼が陥った罠にはまらないように心を戒めていくことが、わたしたちの課題なのです。

 

この記事はケリー・P・メリルによって書かれました。