ジョセフ・スミスの殉教

最後の避難をする前に、湿地から作り上げたイリノイ州ノーブーの美しい町での人々の憎悪は頂点に達しました。聖徒らは多くの土地をあとにし、大変な個人的な犠牲を払ってこの場所で一時的な平和を見出したのです。彼らは神の命に従ってノーブーで美しい神殿を建てましたが、ジョセフ・スミスは常に追われる運命でした。

暴徒たちはノーブー神殿を取り囲み、ジョセフの家を焼き払うと脅しました。地元の新聞は10日以内にノーブーからすべてのモルモン教の会員を殺害あるいは追放すると報じました。ジョセフが聖徒に関していくつもの偽りの中傷記事を発行した『ノーブー・エクスポジター』の印刷所を合法的に破壊したことにかかわったという事件以来、ますます多くの人々がジョセフの血を求めるようになりました。

ジョセフ・スミスは暴徒の暴力からの保護をアメリカ合衆国のジョン・タイラー大統領とイリノイ州知事トーマス・フォードに嘆願しました。ノーブー軍が召集され、市民を保護するためにノーブーにおいて好戦的な法律が施行されました。1844年6月21日フォード知事が到着しました。彼はカーセージとノーブーの人々を沈静化し、モルモン教が人々を攻撃しているという噂をすぐにはねつけましたが、ジョセフ・スミスは少なくとも『ノーブー・エクスポジター』破壊の裁判には出頭しなければならないと決断しました。彼は破壊そのものは法律違反である必要はありませんでしたが、法的な適正手続きはジョセフの無罪放免には至りませんでした。フォードはジョセフ・スミスに州兵による保護と、法的な手続きが確実になされるかを知事が個人的に監督することを約束しました。ジョセフ・スミスはその申し出を信頼できず、アイオワに逃れようと試みました。しかし兄のハイラム・スミスと友人たちが戻るように説得しました。1844年6月25日、ジョセフ・スミスは降伏し、カーセージの監獄に収監されました。カーセージに連行されるとき、ジョセフは次のように言いました。「わたしはほふり場に引かれて行く子羊のように行く。しかし、わたしは夏の朝のように心穏やかである。わたしの良心は、神に対してもすべての人に対しても、責められることがない。わたしは罪のないまま死に、やがて『彼は冷酷に殺害された』と言われるだろう。」(教義と聖約135:4)イリノイ州カーセージは教会に反対する多くの中心となった町でした。そしてジョセフはそこでは公正な裁判をされませんでした。フォード知事がこのことをしたのは群衆を静めるためであると認めました。(教会歴史6:536)

知事は迅速で公正な裁判とカーセージでの公平な州兵の保護を約束しました。ジョセフは保釈金によりすぐに開放され、それからまたすぐにノーブーにおいて好戦的な法律を宣言した反逆罪で再逮捕されました。6月26日にはフォード知事は聖徒の恐れを和らげるため、ノーブーに赴きましたが、州兵をカーセージに配置させるかわりに、フォードは地元の兵士(カーセージグレーと呼ばれていた)を、彼らが殺そうと誓っていたジョセフの保護として配置しました。

多くの友人はカーセージの監獄にジョセフ・スミスに従って行き、彼ら自身は逮捕されていませんでしたが、彼とともに監獄に残りました。6月26日にジョセフ・スミスは彼らに出て行くよう命じました。彼はウェールズからの改宗者である友人のダン・ジョーンズに、暴徒から逃れてウェールズに宣教師として戻るであろうと約束しました。これは数年後に実現し、ダン・ジョーンズはモルモン教の歴史の中で最も偉大な宣教師の一人となりました。3人のすべての友人は最終的にそこから退去しました。カーセージに残っていた3人はジョセフの兄ハイラム、後に教会の大管長となったジョン・テーラー、使徒のウィラード・リチャーズでした。ブリガム・ヤングを含む他の使徒のほとんどは最近アメリカ合衆国の東海岸の方に伝道に派遣されました。

6月27日、ジョセフ、ハイラム、ウィラードとジョンは獄吏から独房からより快適なベッドのある部屋に移る許可を得ました。ジョセフ・スミスはモルモン書を読み、家族に手紙を書いて過ごしました。38歳でジョセフ・スミスはエマとの間に11人の子供をもうけましたが、そのうちの6人は幼くして死にました。オハイオではエマは双子を亡くしましたが、それからまもなく、ある母親を亡くした家族から双子を養子にしました。成人したのはジュリア・マードック(養子の双子の一人)、ジョセフ・スミス・3世、フレデリック、アレクサンダー、デビッド・ハイラム(ジョセフの死後生まれた)の5人でした。ジュリアは最年長でしたが、父親が死んだときにはまだ13歳で、長男のジョセフはまだ12歳でした。手紙の中で、ジョセフ・スミスはエマに主にあって子供たちを育て、父親が教えた宗教に従うように願いました。彼は母親の病気についても心配しました。彼女は未亡人になって3年たち、世話が必要な状態でした。

1844年6月27日、ジョセフ、ハイラム、ウィラードとジョンは交代で聖文とユダヤの歴史家ヨセフスの書いたものを音読しました。ジョン・テーラーによると、ハイラム・スミスが読んだ最後の聖句はモルモン書の最後の預言者であるモロナイが、神の業に反対する人々に別れを告げているエテル12章でした。ジョン・テーラーはジョセフの大好きな賛美歌「迷える旅人」も歌いました。その賛美歌は正しい人と裁判や不法監禁で悩まされた変装した救い主である貧しい人の間の友情を描いたものです。夕方5時頃、監獄の外で銃声がし、多くの暴徒の前に獄吏と守衛は逃げ出しました。その多くは知事がジョセフ・スミスを守るために配置したカーセージグレーでした。暴徒の顔は黒いコールタールで変装し、銃を撃ちながら、監獄に乱入してきました。暴徒が乱入すると、取り囲まれた囚人たちは自らを守ろうとしました。ハイラムとウィラード・リチャーズはドアを押さえようとしましたが、弾丸がドアを貫通し、ハイラムの顔に命中しました。彼は床に倒れ、「わたしは死ぬ」と叫び、ジョセフは死にそうな兄を抱いて「ああ、ぼくの愛するハイラム兄さん!」と叫びました。

ジョン・テーラーによると、そのときジョセフは「すぐに確固とした足取りで決意に満ちた表情でドアに近づき、ウィーロック兄弟がポケットから残した6連発拳銃をとってドアを少し開け、6発撃ったが、玉は3発しか発射されなかった。」(『Hyrum Smith: A Life of Integrity』Jeffrey S. O’Driscoll、352)

弾丸が部屋を飛び交う中、ジョセフは窓に駆け寄りました。ジョン・テーラーは4発撃たれましたが、懐中時計に命中して命を取り留めました。彼はベッドの下に潜り込みました。

ウィラード・リチャーズはジョセフが窓枠によじ登るのを見ました。すぐにジョセフは背後から2発撃たれ、窓から1発撃たれました。数発の弾丸を受けた彼は窓から飛び降り「おお、わたしの神よ、主よ」と叫んで死にました。ジョセフは監獄のすぐ外の井戸のところに落ちたあと、何度も撃たれましたが、だれかが「モルモン教の兵がやってくる」と叫んだので、それによりさらなる冒涜から免れました。モルモン教の会員たちが本当にやって来たわけではありませんが、噂のために暴徒たちは逃げてしまいました。ウィラード・リチャーズはジョン・テーラーの傷口をわらと布で押さえ、ジョセフとハイラムの遺体をきれいにしました。

その日、預言者の弟のサミュエル・ハリソン・スミスはカーセージに向かっていました。近づくにつれて暴徒の行動を目にした彼はモルモン教の会員たちの助けを得るために急いでノーブーに引き返しました。そのときの無理がたたって、彼も数週間後に死にました。そしてスミス家の6人の息子で母親より長生きしたのは不安に満ちた、ウィリアム・スミス1人になってしまったのです。ジョセフの3人の姉妹たち、ソフロニア、キャサリン、ルーシーは天寿を全うしました。ジョセフの母親はエマ・スミスの世話により1856年まで生きましたが、ほとんど病気がちでした。

ジョセフとハイラム・スミスの遺体はイリノイ州ノーブーに運ばれ、次の日の1844年6月29日にジョセフの家の近くの秘密の場所に葬られました。これは彼の遺体に懸賞金がかかっていたからです。場所を知っているのはほんの数人でした。柩に砂を満たした正式な葬儀が執り行われました。 

殉教の影響

ジョセフ・スミスはモルモン教とその会員を守るために死ぬと宣言していました。この預言は成就して、モルモン教の多くの敵が、ジョセフとハイラムの死後、「モルモン教」は指導者なしでは崩壊すると信じて待っていましたが、彼らはジョセフ・スミスとモルモン教を正しく理解していなかったのです。彼らはモルモニズムというものはジョセフ・スミスをモルモン教の神に仕立てたカルトで、彼なしでは崩れてしまうと信じていました。しかし「モルモン教」は崩れませんでした。なぜならそれはイエス・キリストの教会であり、その教えはあてにならない預言者の上に建てられているのではなく、預言者に霊感を与える倒れることのない神を基としているからです。モルモニズムは繁栄し続け、殉教の後、少しの間中断しましたが、モルモン教は美しい神殿建設を終え、ジョセフの町と名付けたノーブーを離れる準備をしていました。モルモン教の指導はブリガム・ヤングを先任使徒とした十二使徒定員会により引き継がれました。ジョセフは死の前に、自分の持つすべての神権の鍵を十二使徒に授けていました。ジョセフの死後まもなく、このようにしたことの意味が使徒たちにははっきりと理解することとなりました。

1846年の初め、聖徒らは神殿を完成し、彼らは神殿の儀式を受け、多くは永遠に家族としてともに住むことのできる結び固めの儀式を受けました。1846年の終わり頃、カーセージとウォルソーの住民はモルモン教に退去を要求し、ブリガム・ヤングは再びすべてを捨てて移動する準備を始めました。最初のモルモン教の開拓者の脱出は1845年に始まりましたが、多くの人々は1846年の2月に退去し始めました。彼らはアイオワのぬかるんだ土地に逃げました。1846年9月には最後に残ったモルモン教の会員たちがノーブーの戦いで、カーセージの兵たちから退去させられました。そのようなとき、放火犯らはノーブー神殿を汚して火を放ち、その2,3年後竜巻が残骸を破壊しました。多くのモルモン教の開拓者のユタへの脱出が始まったのです。

モルモンの開拓者、西部へ旅。

開拓者

ジョセフ・スミスの遺産

ジョセフ・スミスが残した教会の組織の構造は、その後200年ほど大きく変わることはありませんでしたが、少しの変更や多くの発展がありました。最も重要なことは、ジョセフがイエス・キリストの完全な福音を回復し、教え、宣教師を組織し、今日まで全世界に神のメッセージを広め続けているということです。ジョセフの霊感された言葉は古代の予言者イザヤやパウロのように聖文となりましたが、それ以上にジョセフの証と、神に近づくための模範と救いをどのように得るかということは、この世で何百万の人々に平安を与え、来たるべき世での救いをもたらしました。38年の生涯で、ジョセフ・スミスは人がもっと長い生涯をかけて行うようなことを成し遂げたのです。彼はモルモン書を翻訳し、2つの大陸でそれが出版されるのを監督しました。自ら受けた啓示を「教義と聖約」として知られる聖文として出版しました。末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)を組織し、多くの人々を集め、たくさんの町を作り、2つの美しい神殿を建てました。また、自ら確かな証を持っていたイエス・キリストの福音についてのモルモン教の信条を教え、人が神の目に神から授かった価値と可能性を持っているということが分かるように助けました。教会の大管長としてジョセフは3つの大陸(北アメリカ、ヨーロッパ、アジアの一部)に宣教師を派遣し、その努力により25,000人以上の人々が教会に入り、聖徒に加わるためにほとんどすべてのものを犠牲にしました。ジョセフ・スミスは教会の基本的な信条について尋ねられたとき、シカゴの新聞の編集者宛てに寄稿し、モルモニズムの将来について次のように述べました。

「わたしたちの宣教師は様々な国に出て行く。真理の標準が確立されたのである。いかなる汚れた者の手も、この御業の発展を阻止することはできない。迫害は威を振るい、暴徒は連合し、軍隊は集合し、中傷の風が吹き荒れるであろう。しかし神の真理は大胆かつ気高く、悠然と出で立ち、あらゆる大陸を貫き、あらゆる地方に至り、あらゆる国に広まり、あらゆる者の耳に達し、神の目的は遂げられるであろう。かくして、大いなるエホバは、御業は成就したと仰せになるのである。(教会歴史4:540)

 

この記事のオリジナルはモルモンの歴史に投稿され、高根澤リエによって翻訳されました。